刑部芳則が語る、J-POPの元祖・服部良一が戦時中に作った楽曲の幅広さと抵抗

いとしあの星 / 渡辺はま子



田家:1939年、昭和14年に発売。作詞がサトウハチローさんで作曲が服部良一さん。

刑部:この曲は私大変好きなんですよ。哀愁があって、それでいてリズミカル。これは日本と当時の満州国、日満親善の国策映画として作られた『白蘭の歌』というのがありまして、それの主題歌というような形で作られたんです。

田家:満蒙開拓団とかというのもありますもんね。

刑部:日本で生活しているよりも満州に渡って農業とか産業に従事した方が、生活が豊かになった人も多いんですよね。

田家:そうやって満州に行かれた人たちが日本に引きあげてきて、戦後音楽の世界に進んだ。加藤登紀子さんがそういう人ですからね。淡谷のり子さんは東京音大、渡辺はま子さんもちゃんと音楽の学校を出てらっしゃいますもんね。

刑部:武蔵野音楽学校。今の武蔵野音大ですけど、戦前の歌手の人たちは基本的にはみんな音楽学校を出ている方が多いですね。クラシック歌手を目指していたんだけれども、なかなかそう簡単になれるものではなくて流行歌の歌手へという形へ転向していく形ですよね。

田家:渡辺はま子さんも制作禁止、さっきの「別れのブルース」が発売できなくなったというような状況は経験されているんですか?

刑部:あります。むしろこの人がなったことによって、非常にそこが注目されていくことになるんですね。昭和11年に「忘れちゃいやヨ」って、ネエ小唄って言われたんですけど、対話調で作ると大体十中八九、内務省は禁止事項にしてくるんですね。

田家:なんでですか?

刑部:所謂風俗を紊乱させる。女性が男性を誘っているというふうに当時の人、官僚たちは聴こえたんですね。今聴くと、なんともない曲なんですよ。

東京ブルース / 淡谷のり子



田家:昭和14年7月発売。

刑部:「別れのブルース」はよく懐メロ番組でかかるんですけど、これはヒット曲にも関わらずほとんどかかる機会がないんですね。なんと言っても西條八十が作詞しているんですけど、アパートとかラッシュアワー、エレベーター、プラネタリウムというような当時の最先端の昭和モダニズムの横文字を使ったおしゃれな曲という感じがするんですよ。

田家:喫茶店も出てきますしね。先生がお書きになった『淡谷のり子の世界』の解説にこんな一文があったんです。“日本の流行歌を歌うのが情けなくて、せめて外国の歌をと思ってジャズを勉強した”。

刑部:淡谷さんはクラシックの歌曲を歌うための歌手を目指していたわけですけども、レコード産業に入ってみて与えられたのは流行歌でした。こんな歌をなんで私が歌わなきゃいけないのかと思った。そんなときにジャズとかシャンソンは、外国のポピュラー・ソングで歌曲とは違うんだけども、歌曲に近い外国曲という形なので流行歌に比べたら私には合っているということで、そっちの方の道を開拓していくことになるんですよね。

田家:4枚発売された『笠置シヅ子の世界』、『服部良一の世界』、『淡谷のり子の世界』、『渡辺はま子の世界」。『淡谷のり子の世界』の中にはシャンソンがいっぱいありましたもんね。戦争中、シャンソンはどういう扱いだったんですかね。

刑部:シャンソンと言うとフランスですけど、フランスもやっぱり敵国だったので放送禁止曲とか中止曲になったものもあるんです。ただ、昭和17年11月に同盟国のドイツイタリアがフランスを占領するんですよね。そうするとクラシックの曲なんかは解禁してもいいんじゃないかとかね。だからなかなか難しいんですよ。

田家:ドイツがフランスを占領しちゃうとオッケーになっちゃったりするんだ。

刑部:そういうものもあったと思うんですね。ただ、シャンソン自体はやっぱり活力が出ない。それこそ、さっきの「別れのブルース」と同じように、戦意高揚しませんからあまり好まれなかったとは思いますよね。

田家:エンターテイメントがいかに政治に翻弄されるかといういい例ではないでしょうかね。再び渡辺はま子さんをお聴きいただきます。銀座の歌です。「軍国銀座娘」。

Rolling Stone Japan 編集部

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