鈴木慶一が振り返る、ムーンライダーズと共に駆け抜けてきた72年の人生

鈴木慶一

はちみつぱいやムーンライダーズの中心メンバーとして、日本のロックの黎明期から最前線で活動してきた鈴木慶一。その他にも、高橋幸宏とのTHE BEATNIKS、PANTAとのP.K.O、KERAとのNo Lie-Senseなど、様々なユニットやバンドでも作品を発表。近年では映画音楽の作曲家として国際的に活躍してきた。音楽評論家の宗像明将が、その膨大な仕事の全貌を捉えた『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』が刊行された。鈴木慶一自身の言葉で人生を振り返った本書からは、日本のロックの歴史も浮かび上がってくる。どんな風に鈴木慶一は音楽と向き合ってきたのか。本の内容に触れながら話を聞いた。



『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』宗像明将・著 株式会社blueprint・刊


生い立ちと音楽の目覚め

ー『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』によると、慶一さんは大家族のなかで育ったそうですね。社長をしていて一家の大黒柱だった厳格な祖父。役者の父親、社交的な母親、そして、親戚達とひとつ屋根の下で暮らしている様子は、まるでイタリア映画みたいです。大人たちに囲まれて育ったことが、慶一さんに影響を与えているのでしょうか。

慶一:いつも言ってるけどそうだね。年上のいとこからいろんなことを教わったから、同世代の子供達よりも先に文学とか映画とか音楽に触れる機会が多かった。小学校に入るくらいに親戚の叔母さんに連れられて『二十四時間の情事』を観に行ったりしてね。

ーそういえば、ムーンライダーズに「24時間の情事」という曲がありますね。

慶一:あの映画に原爆のシーンが出てくるんだよ。そこで実際の映像が使われていて、それが子供心に衝撃でね。30歳過ぎるまで、もう一度観られなかった。叔母さんが(主演をしていた)岡田英次のファンだったから観に行ったんだけど驚いていたと思うな。

ーあと、お祖父さんが新しいもの好きで、新しい電化製品が出るとすぐに買われていたとか。テクノロジーに対する興味は、慶一さんに通じるところがあると思いました。ムーンライダーズもいち早くシンセやコンピューターを音楽に取り入れていましたし。

慶一:ラジオ、テレビ、ステレオ、テープレコーダー、そういうものが、いち早く家にあったことは大きいね。ずっと、家でそういうものをいじっていて。子供の頃から宅録をしてたから、ギターを弾くようになってもバンドをやろうとは思わなかったんだ。私が中1の頃、弟(ムーンライダーズのメンバーの鈴木博文)が、転地療養で全寮制の養護学園に2年半くらい行くんだよ。そして、中2の頃には家にいた親戚が結婚したりして、みんなで出て行ってしまう。だから中2、中3っていうのは宅録はやり放題だし、テレビも好きなものが観られた。勝手気ままにやってた。

ー母親から買ってもらったギターも弾き放題。

慶一:エレキギターにフォークギター。あと、ハイハットだけ買ってもらったりね。よく買ってくれたと思うよ。エレキなんて、当時は大卒の初任給くらいしたんじゃないかな。そういう点では恵まれていたね。お袋は私が音楽をやったらいいんじゃないかと思っていたのかもしれない。

ーご両親が劇団で知り合ったということもあって、芸能ごとに理解がある家庭だったのでしょうか。

慶一:そうだね。ただ、爺さんに見つかると「エレキなんて弾いているのか!」って怒られる。おっかない人だったから。だから、叔父さんや叔母さん達も爺さんに隠れていろいろやってたんだよ。

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