鈴木慶一が振り返る、ムーンライダーズと共に駆け抜けてきた72年の人生

ムーンライダーズが変化し続けてきた理由

ーはちみつぱい解散後、76年に慶一さんはソロ・アルバム『火の玉ボーイ』を発表します。同じ年にあがたさんは『日本少年』、細野さんは『泰安洋行』を発表。それぞれ傑作ですが、共通するのはコンセプチュアルな作品であること。架空の世界を描き、そこにいろんな音楽性を織りまぜることでオリジナルな世界観を模索しています。

慶一:その架空さというのが当時の最先端だったのかもね。それまではアメリカの音楽をなぞってきたわけじゃない? 「日本のグレイトフルデッド」とかさ。そうじゃなくて、自分たちで面白い世界を作ろうと思うようになった。

ー自分たちで面白い世界を作る、という延長線上にムーンライダーズがあったわけですね。ムーンライダーズは、ブリティッシュ・ロック、モダン・ポップ、プログレ、パンク、ニュー・ウェイヴなど、作品ごとにその時代の最先端の音楽を取り入れて変化していきます。常に新しいサウンドを取り入れる、というのはバンドを結成した時に心掛けていたことなのでしょうか。

慶一:バンドを結成する時に決めていたのは、作詞も作曲もできる、そして、歌も歌えるメンバーがいっぱいいるバンドにしたいということだった。そういう人たちを集めてみたら、みんな演奏が器用でどんなサウンドも弾くことができた。変化に柔軟に対応することができたんだ。

ーテクノが注目を集めた時、慶一さんと同世代のアーティストの間では意見が分かれました。シンセの音色を軽薄に感じて嫌うミュージシャンのほうが多かった。そんななかで、ムーンライダーズのメンバーは誰一人反対せずに、新しいサウンドに飛び込んでいく。全然違うタイプの曲を書くメンバーが集まっていながら、この足並みの揃い方は見事ですね。

慶一:次々と新しいものに興味をもち、それを器用にこなせるのが6人の資質だった。私個人のことでいうと、生まれ育った羽田の東糀谷という場所は、時代とともにどんどん風景が変わっていくんだよ。子供の頃は田んぼもあったんだけど、それが工場だらけになり、工場がなくなるとアパート。今ではマンションが建ち並んでいる。時代に蹂躙される土地で、住民はその変化を受け入れている。そうでない人たちは引っ越す。

ー常に変化する場所、というのは実に東京的ですね。はっぴいえんどは東京の原風景をノスタルジックに歌いましたが、ムーンライダーズは東京のごとく変化していった。

慶一:過剰な変化だよね。いま、渋谷が再開発で変わったことに文句を言う人がいるけど、私は全然平気。道がわかりにくくなったけど、それは把握すればいいだけだから。

ー変化し続けるから完成しない。完成しないから常に新しい、というのが、ムーンライダーズの音楽なのかもしれません。

慶一:メンバーの誰もムーンライダーズのサウンドを完成させようとは思ってなかったんじゃいかな。1曲1曲、アルバム1枚ごとの完成度は目指すけど、重要なのは「今を作る」ことだった。自分たちが面白いと思うものを作り続ける。そういう場所を確保するために活動を続けていた。

ーそんなムーンライダーズの活動を振り返ると、慶一さんが好きな詩人、ジャン・コクトーが残した「美よりも速く走れ」という言葉を思い出します。

慶一:コクトーは名言を残したね。だからこそ、コクトーは映画も作るし、舞台もやるし、詩人では収まらない。

ー常に新しい美を追求していたコクトーは「いかなる革命も、3日目から堕落が始まる」とも言っています。ムーンライダーズは作品ごとに革命を企てるバンドでした。

慶一:新しいものを取り入れる、というのは自然にやっていたことだったけど、前のアルバムとは違うものを作ろう、という気持ちはメンバー全員が口に出さず意識していたと思うな。

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