鈴木慶一が振り返る、ムーンライダーズと共に駆け抜けてきた72年の人生

鈴木慶一が見た日本語ロック黎明期

ー宅録で曲作りをしていた少年時代。そして、高校卒業後にあがた森魚さんとの運命的な出会いをして、あがたさんが自主制作をした『蓄音盤』を手伝ったことをきっかけに音楽の道に進んでいく。

慶一:家で宅録の研究をしていたことが『蓄音盤』で役に立つわけだ。

ーあがたさんと一緒に都心に頻繁に出るようになったことも大きな変化だったそうですね。『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』によると、渋谷や新宿といった都心と慶一さんが生まれ育った羽田とでは文化圏が随分違っていたとか。

慶一:家から都心に出るまで1時間くらいかかるから、滅多に出かけることはなかった。お袋の実家が武蔵野の方にあって、お袋と一緒に実家に行った帰りに一度だけ新宿に寄ったことがあるんだ。68年くらいだったと思う。アングラ・ブームで新宿が大変なことになっているって聞いていたから、新宿で途中下車したんだよ。そしたら、すごい格好をした人が歩いているのにびっくりして5分くらいで帰ってしまった(笑)。そんな有様だから、あがたくんと都心に出るときはくっついていくだけ。あがたくんは北海道出身だけど明治大学に通っていたから地下鉄を把握しているんだよ。私は全然わからなかった。

ー『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』に書かれている、慶一さんから見た当時の音楽シーンがとても興味深かったです。頭脳警察、遠藤賢司といったアーティストが日本語でロックをやろうとしていた。それを目の当たりにした慶一さんは「早く自分も日本語ロックを書かないと」と焦ってはちみつぱいを結成する。日本語で歌う、ということが重要だったんですね。

慶一:69〜70年くらいに頭脳警察やエンケンをテレビで見て衝撃を受けたんだ。あがたくんも斉藤哲夫さんも日本語だった。そして、はっぴいえんどが出てくる。関西フォークが出てきたのも大きいね。ザ・フォーク・クルセダーズの影響もあって高校の時にオリジナルの曲をたくさん作ったけど、デタラメな英語で歌ってた。それよりも、日本語で歌った方が伝わると思ったんだ。英語力もたいしてないしね。

ーロックにどんな言葉を乗せるのか、何を歌うのか、というのは大きな問題だったわけですね。

慶一:歌詞で何を扱うのか、ということはサウンド以上に考えたね。(はちみつぱいの1stアルバム)『センチメンタル通り』が完成する直前まで歌詞をいじっていた。ビートルズにしろ、(ボブ・)ディランにしろ、ザ・バンドにしろ、曲を聴くだけではなく、歌詞を何度も読んでた。ロビー・ロバートソン(ザ・バンド)のストーリーテリングには本当にやられたね。本にも出てくる(マザーズ・オブ・インヴェンションの)『フリーク・アウト!』は聴くまで3日かかったけど、その間、ずっと歌詞カードを読んでたんだよ。日本のアーティストで歌詞に影響を受けたのは、友部正人、松本隆、高田渡の3人だな。

ー当時、自分が書く歌詞で意識していたことは何ですか?

慶一:はちみつぱいを結成した時、すでにはっぴいえんどは活動していて、(松本)隆さんは山手線の内側の風景を描いていた。私は羽田で、あがたくんは京急の上大岡に住んでいた。だから、湾岸の風景を意識して身の回りのことを歌にしようと思ったんだ。当時は湾岸のことを「東京のディープサウス」なんて言ってたけど、今思うとちょっと無理があるな。せいぜいニュージャージーあたりか(笑)。

ーはっぴいえんどに対抗心を燃やしていたわけですね。

慶一:絶対違うことをやろうって思ってたね。サウンドも、歌詞も。もうすでに出来上がった音楽をなぞってもしかたがない。巨大な存在感だったし。最初から大きく違ったのは酒だよ。彼らは酒は飲まないけど、俺たちは酒浸りだった。

ー『センチメンタル通り』のジャケットが物語ってますね(笑)。

慶一:あれは本当に酔いつぶれてるからね(笑)。

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