クイーンとして生き抜いた、フレディ・マーキュリーという悲劇的なラプソディ

『イニュエンドウ』の後もマーキュリーはレコーディングを続け、できるならもう1枚アルバムを完成させようとした。「フレディが『俺のために曲を書いてくれ…。俺のために歌詞を書き続けてくれ。俺が歌うから』とフレディは言ったんだ」とメイは言う(その成果は1995年リリースの『メイド・イン・ヘヴン』に収録されている)。「彼は続けたの。それが彼の好きだったことだから。そして、そうすることが病気に向き合う勇気を彼に与えていたのよ」とオースティンは言う。マーキュリーの最期まで同棲していた長年の恋人ジム・ハットンも「もし音楽がなければ彼は持ちこたえることが出来なかっただろう」と同意する。

1991年9月、フレディ・マーキュリーは予定していたレコーディングをすべて終わらせてケンジントンの家に戻った。彼は「両親が理解することも受け入れることもできないようなことに巻き込みたくなかった」と両親のことを気にかけ続けていた、とピーター・フリーストーンは回顧録『Freddie Mercury: An Intimate Memoir』に綴っている。数年後、彼の母ジャーは「息子は私たちのことを傷つけたくなかったのよ。でも、私たちには最初からわかっていたわ」と語っている。

マーキュリーはほとんどの訪問者を受け入れなかった。体が弱っていくのを見られたくなかったのだ。彼は薬の使用をやめ、視覚障害の症状も現れていた。それにも関わらず、その状態を認める以下の声明を発表した1991年11月の夜まで、彼はエイズであるという報道を強く否定し続けた。「メディアによる多大な憶測がありましたが、私がHIV陽性の診断を受け、エイズを発症していることを認めたいと思います。このことを公表しないことが私の周りの人たちのプライバシーを守るために正しいことだと思っていました。しかし、私の友人たちと世界中のファンのみなさんに真実を打ち明ける時が来ました。みなさんに私と私のドクターたち、そして、この恐ろしい病と戦っている世界中の人々と力を合わせてほしいと願っています。」彼の世話をしていた人たちは、その後の彼は心の重荷が下りたように見えたと語っている。その翌晩、フリーストーンとハットンがフレディのベッドシーツを変えようとしていた時、ハットンは彼がもう息をしていないのに気づいた。「彼は逝ってしまった」とハットンはフリーストーンに言った。フレディ・マーキュリーは45歳だった。フリーストーンはマーキュリーを訪ねてくるところだったテイラーに電話をして、「来なくていい」と伝えた。

マーキュリーの葬儀は数日後、ゾロアスター教にしたがって執り行われた。アレサ・フランクリンが歌い、ソプラノ歌手モンセラート・カバリェはヴェルディのアリアを披露した(カバリェはオペラ調のアルバム『バルセロナ』で共演している)。マーキュリーの遺体は火葬され、マーキュリーが唯一、心から信頼し、彼の家を遺したメアリー・オースティンが遺灰を埋葬し、その場所は明かされていない。

翌年4月、残されたクイーンのメンバーは亡くなったマーキュリーの追悼コンサートをウェンブリー・スタジアムで行い、様々なエイズ関連団体のために資金を集めるマーキュリー・フェニック・トラストを始動するためのイベントとした。そのコンサートの後、バンドは13年間、活動を休止した。ディーコンは、マーキュリーが晩年取り組み、1995年に完成した4人の最後のスタジオ・アルバム『メイド・イン・ヘヴン』のレコーディング・セッションを最後に完全に音楽業界から引退した。このアルバムの曲はすべて愛の美しさと儚さを歌った曲である。

Translated by Takayuki Matsumoto

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