クイーンとして生き抜いた、フレディ・マーキュリーという悲劇的なラプソディ

このアルバムの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」と「伝説のチャンピオン」の2曲はクイーンの最もよく知られている曲、かつ議論を呼んだ曲である。メイ作曲の「ウィ・ウィル・ロック・ユー」は激しい足踏みから始まり、「Somebody better put you back into your place誰かがおまえの居場所に戻してくれるだろう」と疑い深い人のその疑いを吹っ飛ばしてくれるような歌詞で、パンクへの反論と捉えられることもあった。マーキュリー作曲の「伝説のチャンピオン」はバンド内でも物議を醸した。メイはこの曲が傲慢すぎるものとして捉えられることを恐れ、マーキュリーに「これはできない」と言うとマーキュリーは「できるよ」と答えた。この2曲はとてつもない人気となったが、一部の人は不快感を持ち、ローリングストーン誌のある批評家はクイーンを「初の真のファシズム信奉ロック・バンド」と批判した。2曲ともスタジアムでオーディエンスと一緒に歌うことを想定して作った曲だとメイは言っている。どちらの曲においても「『俺たち』というのは俺たち、オーディエンス、この曲を聞く人たちすべてを含んでいる。『俺たちは誰よりもすごいバンドだぜ』という意味の曲ではなく、もっとみんなに当てはまる友好的なものなんだ」とテイラーは言う。「伝説のチャンピオン」をマーキュリーのゲイであることの密かで挑戦的な告白だと捉えるリスナーもいたが、そういった解釈はこれらの曲が世界的にスポーツイベントで勝者の曲として使われるようになってすべて覆された。

『世界に捧ぐ』はおそらくクイーン史上最高のアルバムだった。『ジャズ』(1978年)、『ザ・ゲーム』(1980年)、『ザ・ワークス』(1984年)、『カインド・オブ・マジック』(1986年)を含めそれ以降のアルバムのほとんどは芸術性を追求したようなものではなかったが、それにもかかわらず(デヴィッド・ボウイとの共作「アンダー・プレッシャー」、テイラー作曲の「レディオ・ガ・ガ」、マーキュリー作曲の「愛という名の欲望」、ディーコン作曲の「地獄への道づれ」など)安定してヒットを生み出し、ライブの動員を増やし続けた。しかし、彼らが期待した以上にファンの層は広がっていったのかもしれない。1980年初期までにマーキュリーは自身の1970年代の飾り立てたイメージにうんざりしていた。彼は髪をばっさり切ってオールバックにし、立派な口ひげを伸ばし、レザーかピタッとしたスポーツウェアを着るようになった。それは当時のロック界には受け入れられていなかった、1970年代後期に典型的な屈強なゲイのイメージとして知られていたものそのものであった。それを、特に「地獄への道づれ」のライブ演奏で、タイトなショーツをはいたマーキュリーが「噛み付くんだ」「強く噛み付くんだ、ベイビー」と歌いながらステージを駆け回り、見せたことで、かつてないほどに彼は自身の性的指向を公に認めたように感じられる。1980年のアメリカ・ツアーのいくつかの公演ではファンが使い捨てのカミソリの刃をステージに投げ入れた。彼らは堂々とゲイのロックンロール・ヒーローを気取っているマーキュリーのアイデンティティを良しとせず、それを辞めさせたがったのだ。

クイーンは1982年以降、二度とアメリカでツアーを行うことはなかった。バンドのメンバーがファンが離れていったのはマーキュリーのイメージのせいだとしているという噂もあった。「それを嫌がっていたメンバーもいる。でも、それが彼だし変えることは出来ないんだ」とディーコンは1981年にローリングストーン誌に語っている。一方メイは、バンドはアメリカのマーケットは気にかけていない、というような口ぶりで「いつだって俺たちが最高の俺たちのままでいられて何の心配もしなくていい場所はあった」と語っていた。

Translated by Takayuki Matsumoto

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