Wet Legが挫折から得た学び「もう若くないなら、時間切れなバンドをつくればいい」

 
ワイト島での暮らし、ふたりの出会い

ワイト島の住民の多くが島を離れるとは限らない。実際、ウェット・レッグのメンバーの半分は島に残った。以前ブリストルで暮らしていたリアンは、いまはロンドンに住んでいる。彼女は、ワイト島について次のように語った。「訪問するだけなら大丈夫だけど、ここでずっと暮らすとなると、本当に閉所恐怖症みたいな気分になる。囚われのティーンエイジャーのよう」。へスターとほかのメンバーを除いて、近しい友人はみんな島を出た。

へスターは島の南部のロックソールではなく、いまもウエスト・ワイトで暮らす。島民と島民以外の人々の間では、ロックソール出身者は近親相姦によって生まれた、という噂がある。「子供たちがいかにも自信満々にこんなことを話すのは、なんだかすごく変な感じ」とへスターは言う。

リアンも「きっとあまりに退屈だから、何か言いたいだけなのよ。軽いおしゃべりのつもりだと思う」と言い添えた。

すべての島民が知り合いという圧力鍋のような異様な空間は、幼少期を過ごす場所としてはあまりに退屈だ。(筆者である)私自身もワイト島の出身だが、誰かに冗談のつもりで「ウェット・レッグを知っているか?」と聞かれたことがある。その時は「知らない」と答えた。だが写真を見ると、写っているのがリアンだとわかった。地元で音楽活動をするティーンエイジャーとして有名だったのだ。島を出ないから、同世代の子たちのことはなんとなく知っている。それによほど金銭的に余裕がない限り、ショッピングやライブ目的でイギリス本土に日帰り旅行をする機会もない。「そんな余裕はなかった」とリアンは振り返る。「(ポーツマスにある)ウェッジウッド・ルームでミステリー・ジェッツのライブを見たけど、それが唯一の思い出かな。ライブとフェリーのチケットを買ったの。16歳だと料金は40ポンド(約6700円)」


Photo by Terna Jogo

音楽フェスの季節になると、ワイト島はまさに最高の場所だった。太陽目当てに行楽客が押し寄せる頃は特にそうだ。島には、太陽のほかにイギリス屈指の2大音楽フェスという目玉があった。ワイト島フェスティバルとベスティバルだ。「ブルース・スプリングスティーン、スティーヴィー・ワンダー、エルトン・ジョン、シック、ザ・ルーツといったアーティストをワイト島で見ることができたなんて夢みたい。すごいことだと思う」とへスターは言った。

リアンは、15歳当時はまだへスターと面識がなかったため、一緒に音楽フェスに行くことができなかったことを残念がった。彼女らが出会ったのはもっと後、音楽大学でのことだ。さらに彼女は、ワイト島フェスティバルのラインアップが以前とは変わってしまい、奇妙にも時代遅れで世間から愛されないイベントになってしまったと悔やんだ。「海外のジャーナリストは『伝統と格式のあるワイト島フェスティバルで演奏されるなんて、ワクワクしますね!』と言うけど、いまのは過去とは何の関わりもない、まったくの別物。名ばかりのものになってしまった」

ふたりは、BTEC(イギリスの職業資格制度)プログラムの音楽科で出会った。当時へスターは16歳、リアンは17歳。いまはふたりとも30代一歩手前だ。リアンは島の東の海岸にあるサンダウンという町でAレベル(イギリスの大学入学資格)を習得するために学校に通いはじめたが、中退してアイスクリームショップで働くようになった。通行人のためにドーナッツやレンジで温める食事をつくった。「母は怒っていたし、心配していたと思う」と彼女は中退について語った。「社会は厳しいところだから、そろそろ本気を出さないといけないって私に気づいてほしかったのかも。(Aレベルよりも)BTECのほうが取得しやすいと思った。歌うことも結構好きだったから」

かたやへスターはドラムを習っていたが、辞めてしまった。「私には音が大きすぎたの。ドラムの音は、あまりにうるさくて。あれはダメ」

ふたりの友情は目に見えて強く、姉妹のような独特の非言語さえ持っている。2018年、リアンはソロプロジェクトのサポートをへスターに持ちかけた。「リアンは本当に面白くて独創的な人。知り合った頃から、(独創性が)ずっと放出されている感じ」とへスターは口を開いた。「あなたと一緒にやりたい、と思わない理由はどこにもなかった——私の能力を除いて。『いったいどうして私にギターを弾いてほしいと思うの?』と思った。ものすごい恐怖を感じたの。自分が適任だという確信が持てなかった」


Photo by Terna Jogo

「私だって、あなたにあんなことを聞いた時は怖かった」とリアンはふたりの仕事上のパートナーシップについて語る。「私たちは本当にびくびくしていた。まだ少し怖いけど、その恐怖を感じながら、とにかくやっている」。リアンは「少しフォーキーで、意図的に少量の悲しみと内省をたたえた」自身のプロジェクトにだんだん嫌気がさした。これらの作品は、RHAIN名義でいまもYouTubeで視聴できる。きわめてリリカルな楽曲であると同時に、2000年代のインディーロック、ジョアンナ・ニューサム、レジーナ・スペクターといったアーティストの影響を色濃く残す。「『何でこんなことしてるの?』と思うようになった。その一方、へスターと遊ぶのはものすごく楽しくて。ドライブしたり、音楽を聴いたり、フェスで演奏したり……ビールもタダで飲めたしね。夏の原っぱの上を一緒に転げ回るうちに、疲れ切っていた私は、へスターのことをもっとよく知ることができた」。へスターは次のように言い添えた。「ビールを飲みすぎて酔っ払った時、私の髪を後ろで抑えてくれたよね。あなたが(飲みすぎて)吐いてしまうことがあったら、その時は私が髪を抑えてあげる」

幸いにも、リアンは丈夫な胃の持ち主だ。それでも、「ごわごわコート事件」ではへスターに救われたと彼女は言う。それはシャンバラ・フェスティバル(UKノーサンプトンシャーで行われる音楽やアートの祭典)での出来事だが、どういうわけか、このイベントにはこの手の話題が尽きない。「もしかしたら記事にできないかもしれないけど……」とリアンは言う。「あの時、私は違法なドラッグを使って、ファーカラー付きのビニールのコートを着ていた。ファー以外の部分はすごくゴワゴワしていた。まるで鉛筆みたいに身体が硬直した気がしたの。身体中が圧迫されている気分だったけど、ファーカラーはすごく素敵だったから『動いちゃダメ、動いちゃダメ』って自分に言い聞かせていた。すると、地面にばったり倒れ込んで『へスター助けて! ヤバい!』ってパニックになってしまった」

これらの出来事を経て、ウェット・レッグを立ち上げるという考えはふたりの間にごく自然に生まれた。「かなり恐怖だった。だって誰かを好きになるとあることを思いつくけど、あまり興奮しすぎてもいけない。実現しないかもしれないから」と、へスターはウェット・レッグの誕生について語った。「日常生活は、こうしたものの間に簡単に割って入ってしまうから。だから、有言実行できたのは結構クールだよね」


ヘスター・チャンバース(Photo by Terna Jogo)


リアン・ティーズデイル(Photo by Terna Jogo)

リアン曰く、バンドを結成する話は以前からあったものの、実現には至らなかった。「私たちは、あまりに怯えていた」。あるいは、時間をつくらずに自分で自分を妨害し、忙しすぎるからと言い訳をしていたのかもしれない。「そうね」とリアンはうなずく。「理由のひとつは『いまから音楽をやるには、歳をとりすぎているし、仕事にもわりと満足している』と思っていたから。心から人生を楽しめるところまで来ていた。でも、夏にはまた一緒に音楽フェスに行って、気持ち悪くなるまで酔っ払いたいから、音楽をやることにしたの」

ファッション好きのリアンは、「人からお金をもらって逃げるような商業的領域」で働いていた。要は、広告向けのスタイリストだ。重たい荷物を持ち上げることや、スタイリストという仕事につきものの多忙さも気に入っていた。それまでは飲食店で接客の仕事を続けていたが、3〜4年前にこの仕事に就いた。リアンにとってまだまだ新しい世界だったということもあり、誰かのスタイリングをして生計を立てることに夢中になった。「『路面清掃員の制服が必要? それなら、とっておきの制服を用意します』とか、『おばあさんの衣装? スタジオで探してみます』みたいに、出演者の衣装担当として働いていた」。社会人として初めて仕事に就くことができたのは、島民のコネクションのおかげだった。「その人から『現場では自信を持たないとダメ。あなたは、現場でも自信をもって振る舞える?』と言われたけど、何のことかさっぱりわからなかった」

へスターは、目下のことのように励ましの言葉をかけた。「大丈夫。うまくいくまでは、うまくいくふりをすればいいの」

音楽活動の時間が持てなかったため、ふたりとも仕事を辞めなければいけなかった。へスターは、ジュエリーメーカー兼修理士としての仕事を恋しく思っている。退屈だが、繰り返し作業ならではの静けさが好きだった。「(スタイリストの)仕事のいいところは、目まぐるしすぎて……」とリアンが言うと、へスターは微笑みながら「脳みそが別の次元に運ばれてしまうこと」と代わりに締めくくった。

Translated by Shoko Natori

 
 
 
 

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