セレーナ・ゴメス「真実」を語る 心の病や難病を抱え苦しみもがいた日々

仮に世間の人々がセレーナ・ゴメスという人間のすべてを知っていると勘違いしても無理はない。それくらいゴメスは、偽りのない自分の姿を世間にさらし続けてきたのだ。それでもゴメスのことはすべて知っていると言う人がいるなら、11月4日にApple TV+での配信がはじまったドキュメンタリー『セレーナ・ゴメス:My Mind and Me』をぜひ観ていただきたい。本作がゴメスを持ち上げるためのステルスマーケティング的なもの、あるいは出演者本人の虚栄心を満足させるためのものであるという予想は、開始5分で見事に裏切られるはずだ。そこには、精神疾患を理由にアルバム『Revival』(2015)を提げた2016年のツアーを中断し、治療施設に入院することになったゴメスの痛みと悲しみが包み隠さず映し出されている。その後もカメラはゴメスを追い続け、1時間強にわたって精神疾患に苦しむひとりの人間の姿を私たちに見せつける。ベッドから起き上がることができないゴメスを捉えたシーンもあれば、友人たちに暴言を吐くシーンもある。家の中をあてもなくさまようシーンもあれば、プロモーション活動中に神経衰弱に陥るシーンもある。そこには、苛立ちをにじませながら、押し寄せたメディアに対応するゴメスがいる。



ゴメスは、『セレーナ・ゴメス:My Mind and Me』の公開を危うくキャンセルするところだった。それほどまでに本作の内容は生々しかったのだ。「とにかく不安で仕方がない」。そう言いながら、彼女はラウンジチェアの上で裸足の足を抱えた。「このドキュメンタリーというプラットフォームを使って、もっと大きな目的のために、少しだけ自分を犠牲にしているような気がする。あまり大袈裟に考えてほしくないんだけど、もう少しで公開を取り止めようと思ったの。本当のことを言うと、数週間前まで自信が持てなかった」



PHOTOGRAPHY BY AMANDA CHARCHIAN FOR ROLLING STONE. BODYSUIT BY WOLFORD. EARRINGS AND BANGLES BY LOUISE OLSEN. CUFFS BY SIDNEY GARBER.

まずここで『セレーナ・ゴメス:My Mind and Me』が生まれた経緯を最初からたどってみよう。それはゴメスが友人たちと一緒にメキシコを旅行していたときのことだった。旅先ではしゃぎ回る友人たちをよそに、ゴメスは部屋に引きこもって貪るようにドキュメンタリーを観ていた(ゴメスはいつもそうなのだ)。すると、1991年に公開されたマドンナのドキュメンタリー『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』のトレイラーが流れてきた。ゴメスは興味を持ち、本編を観ることにした。その直後、彼女は「家の外に飛び出して、ピニャ・コラーダ片手に遊んでいた友人たちに『みんな! これを観ないとダメ!』」と言ったそうだ。その後、ゴメスは同作を手がけた映画監督のアレック・ケシシアンに連絡を取り——偶然にもケシシアン監督は、ゴメスのマネージャーのアリーン・ケシシアンの兄だった——「Hands to Myself」(2015)のMV撮影を依頼した。撮影は順調に終わり、ふたりは次のプロジェクトを検討しはじめた。ちょうどRevivalツアーを企画していたゴメスは、『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』のような、アート感あふれるコンサート・ドキュメンタリーに挑戦したいと考えていた。その一方でケシシアン監督は、アーティストに関するドキュメンタリーをもう一度制作することにあまり前向きではなかった。それでも彼は、ゴメスがティーンのカリスマから正真正銘のアーティストへと変わる宿命的な瞬間をカメラに収めることに興味を持った。当時誰もがそうだったように、監督もゴメスの生い立ちくらいはなんとなく知っていた。ゴメスは、アメリカ・テキサス州グランドプレーリー出身だ。1992年に当時まだ高校生だった両親の間に生まれたが、高校生のふたりには、まだ親になる覚悟ができていなかった。そこでゴメスは、母親のマンディ・ティーフィーと彼女の両親と暮らしはじめた。女優志望のティーフィーは、劇場での仕事の合間を縫って、デイヴ&バスターズ(訳注:レストランやバーが併設された大型ゲームセンター)やスターバックスで働いた。それでも生活は苦しく、夕食にラーメンが買えるくらいの小銭はないかと、車の座席の隙間を探すこともあった。そんなある日、ゴメスは母親に連れられて彼女が働いていた地元の劇場を訪れた。これが芝居との初めての出会いだった。「ママはとてもカッコよかった」とゴメスは振り返る。「ショートカットの髪にヘアクリップをつけて、まさに90年代のドリュー・バリモアって感じ。ママは、自分で自分の衣装を作っていた。それを見て、『私もママと同じ仕事がしたい!』って言った。するとママは『いいわよ。もしかしたら、演劇教室に入れてもらえるかもしれない』って言うの。だから私は、『そうじゃなくて、私はテレビに出たいの』って答えた」

Translated by Shoko Natori

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