アングラの女王・浅川マキ、プロデューサー寺本幸司と辿る影と闇の世界

裏窓 / 浅川マキ

田家:作詞が寺山修司さんで、作曲が浅川マキさん。73年のアルバム『裏窓 MAKI V』のタイトル曲。

寺本:この曲で浅川マキと寺山さんはある意味、表現者同士として決別をする最後の曲なんですね。この詞(歌コトバ)を見たときに、くっきり寺山世界の風景が見えるみたいじゃないですか。「マキ、曲つけられる?」って訊いたら、「もう、あたしの中にメロディが生まれてる」と言った作品なんです。

田家:そういう意味では、ソングライターとしての浅川マキさんっていうのもいろんな形で語られる余地がありますね。

寺本:その余地を信じたんですけどね。男性のシンガーソングライターっていうかフォーク系の岡林信康とか吉田拓郎とかいますけど、やっぱり女性っていう位置でいうと、マキなんか走りじゃないのかな? 「夜が明けたら」が出来たのは1968年だものね。そういう意味じゃ、マキの「歌」っていうのは蘇るんじゃなくて、この時代にもう一度、登場するっていう感じで、みんな歌ってくれてるから、それはすごく嬉しいですね。

暗い眼をした女優 / 浅川マキ

田家:『1982年4月28日「スキャンダル」@京大西部講堂』から「暗い眼をした女優」をお聴きいただいています。作詞は浅川マキさん、作曲が近藤等則さん。アルバムは82年10月の『CAT NAP』。

寺本:京大出のトラムペッター近藤等則とは近場で濃い付きあいしてたんだけど、鬼才といっていいような才能の持ち主で、なかなか世間一般の既成概念で掴まえられない男なんですよね。「CAT MAP」を作るっていうときに、浅川マキから連絡があって、「とても柴田では近藤さんをコントロールするのが難しいから、寺さん今度のアルバム、プロデューサーで参加してくれない?」と声がかかった。それまでマキの作るものは全部、現場付きあいしてましたけど、クレジットに寺本って名前が載るのは久々のことで、こっちも気合が入りましたよ(笑)。近藤等則に惚れ込んだ浅川マキを知ってましたから、1曲絶対「決め」を作りたいなっていったときに、浅川マキはこの「暗い眼をした女優」という詞を書いてきて、それを近藤が曲をつけたんですよ。

田家:マキさんがこの詞を書いてきたんだ。近藤さんが曲を書くっていうことで。

寺本:そうそう。そこから近藤の中でも見えたわけですね。今まで作曲で誰かと組んで歌い手でやるなんてことは近藤はやってなかったと思うし。そういう意味で、これ浅川マキの目の前に生まれた新しいバージョンの浅川マキの曲になったし、近藤にとってもそういう作品になったと思いますよ。

田家:アルバムが出たのが82年10月で、西部講堂のライブは82年4月。アルバムが出る前にこのライブでやってた?

寺本:そうそう。だから京大西部講堂ライには、かならず行っていた。浅川マキにとって、ここは勝負の場面だったからね。アンダーグラウンド・カルチャーの発信基地・京大西部講堂には、「しょせん浅川マキはメジャーの歌手だろ」みたいに思ってる面倒な客がいっぱい来るんですね。

田家:最初は断られたんですよね?

寺本:何度も断られた(笑)。

田家:理由が商業主義の人だからダメだった。京大西部講堂の方から断られてた。西部講堂連絡協議会。

寺本:「村八分」なんていうのは常連みたいに出てくるんだけど。

田家:「頭脳警察」とかね。

寺本:そうそう。浅川マキみたいな商業主義的なメジャーなレコード会社の看板歌手は、「うちの講堂ではまかりならん」って断られたんですけど、京大の先輩たちが「おまえら、浅川マキ知らないのか」っていってくれたんで、その人たちの一言で連絡協議会の連中は「わかりました」っていうんで決まったんですよ。そういう経緯があるんで、かならず浅川マキ京大西部講堂公演の初日2日には顔を出すんですよ。何があるかわかんないから。それで近藤が笛を吹いたり鈴を鳴らしたり、床をこすったりするっていうのはあったりするのがニューウェイヴ的なのね。あれはあれでいいんだけど、「ここで鈴やめてくれない?」とかいうのはおれしか居ないわけ(笑)。

田家:このライブがあったから、そのアルバムになった。そういうライブアルバムからもう1曲聴いていただきます。

Rolling Stone Japan 編集部

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