石垣島在住87歳のジャズシンガー齋藤悌子が語る、戦後から現在に至る歌手人生



田家:この曲は懐かしいですね。

齋藤:大好きでした。

田家:ご主人は本土の方、内地の基地でも演奏されてたんですか。

齋藤:東京の方でグループでやっていたようですね。グループでやってる時に米軍の方から何年か契約で来てくれないかっていう話で沖縄へ来たんですね。

田家:渡辺プロダクションの社長さんとかも、米軍基地の中でベース弾いてた人ですからね。

齋藤:フランク永井さんなんかもそうらしいですね。米軍キャンプで歌ってたってことは聞いたことありますね。

田家:基地の中はなかなか日本のコンサートで見れないような歌い手さんも来たりしてたんですよね。

齋藤:あちらにわりと慰問のためにビッグバンドとかボーカルとか来ましたね。そういうのをタダで聴けたのは本当にラッキーでしたよね。有名なビッグバンドとかサラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドとかなかなか聞けたもんじゃないでしょ。そういうのが聞けたのはね本当にラッキーでしたよね。東京で聴くとしたら大変でしたからね。

田家:齋藤さんのステージは、一晩で何回もおやりになったりしたんですか。

齋藤:大体3ステージで、1ステージ3曲。リクエストがあれば4曲になることもあるってそういう感じですね。

田家:ベトナム戦争が激しくなっていく経過は歌われて感じられました。さっきの「ダニー・ボーイ」の話に出ましたが。

齋藤:つらかったですね。素敵な彼女と踊ってるシーンを見てね。ですから今思えば、あの方も元気で帰ってきたかどうかわかりませんよね。

田家:基地の中で歌うことに対して、「お前基地の中なんかで歌ってるのか」って。

齋藤:それはなかったです。これ言っていいかどうかわかりませんけども、私と兄とはちょっと反対で。兄は米軍は早く沖縄から撤退してほしいという行動を取ってるし、私はその基地で歌っていた。全然反対なことやってたんですね。ですから彼は私の歌っていうのは本当に聞いたことなかったと思うんです。ところが去年、プラザハウスというところで私が歌ったときに、一番前に座って聞いてたんです。そのときに彼が感極まったんですね。いきなり立ち上がってハグしちゃった。みなさんの前で。そしたらアナウンサーの方が、実は悌子さんのお兄さんなんですって言って、みんな納得したんですけど。いきなりハグされてびっくりした。ある方が写真撮ってくださって、大事にとってあるんですけど、いい写真ができてましたね。ですから、あのとき初めて兄も私の歌を聞いて、何か感じるものがあったんじゃないですか。

田家:お兄さんは牧師さんだったんですもんね。

齋藤:そうですね。兄がその牧師で盛んに活動してるときに、祈りの言葉を出したということね。今度の弁務官が最後の弁務官となりますようにというお祈りを大衆の前でして、それがものすごい反響を得て、ああいう場所でああいうお祈りをするのはけしからん、ああいうところで度胸のあるお祈りがよくできたって混乱になったらしいんです。そのときは私は千葉にいましたから全くわからなかったんですね。後で聞かされましたね。

田家:高等弁務官っていうアメリカから来る人の就任で、お兄様が初のお祈りを捧げられて、そのときにこれが最後の弁務官になってほしい。素晴らしい挨拶ですよね。祈りですよね。ご主人の実家に1965年、千葉の方にお帰りになるわけですが、その話は、この曲の後にお聞きいただこうと思います。

Rolling Stone Japan 編集部

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