目立ちたがりのアバズレ? 米インフルエンサー界の草分け的存在が振り返る壮絶な過去

彼女はユーザーを自分の世界に呼び込むジャーナリストだった。恋愛やセックスについて一気に語ったかと思えば、次の瞬間にはIT業界についてまくしたてる。本人は「ありのままの人生」と呼んでいた。

ウェビュタント・ボール以外にも、現実世界でのインターネットイベントは存在した。当時創業したばかりのデジタルメディア会社BuzzFeedは、ファンとのオフ会を開催した。2008年にはハーバード大学の学生軍団が、従来のメディアが「ネットセレブ」と呼ぶ初期クリエイター集団が集うインターネットミームをテーマにした2年に1度の祭典「ROFLCon」を立ち上げた。2009年にスタートした「ソーシャルメディア・ウィーク」では、インターネットでオーディエンス獲得の重要性を訴えるトークイベントが行われた。

同じ年、インターネットカルチャーの話題を発信するサイトUrlesqueとKnow Your Memeが、「A Night to ReMEMEber」というパーティを共同開催した。Tumblrの人気ブロガー、初代ユーチューバー、ブロガー、ネットオタクが集まるこのイベントで、参加者は好きなミームの格好で現れた。ちょうどミームがインターネットで人気を博していたため、パーティは成功裏に幕を閉じ、UrlesqueとKnow Your Memeは数カ月後に再びタッグを組んで第1回「HallowMeme」パーティを開催した。今回のドレスコードは、好きなネットの人気者。コンテストの結果、月に向かって吠える3匹の狼、キーボードを弾く猫、そしてチューブの束をまとった男性(ある上院議員がインターネットを例えた意味不明な比喩にちなんでいる)がトップ3に輝いた。この手のイベントでもアリソンは常連で、当時「ウェブリビティ」と呼ばれていた他のクリエイターと交流を深めた。イベントのようすをTumblrに投稿しては、たくさんのいいねやリブログを集めた。のちに多くの人々がInstagramでやるように、彼女もTumblrを駆使した。「日々のファッションコーディネートを載せてたわ」と本人。「記事が出たりTV出演したりすると、それも投稿してた。舞台裏系もかなり投稿してたわね。ファッション・ウィークの楽屋裏とか、普通なかなか入れないようなこととか」。

当時、メディアはアリソンの活動にどう反応していいかわからなかった。ブロガーは2000年後半から主流だったが、独自路線を歩んでいた。アリソンはその辺のブロガーとは違っていた。ジャーナリストだった彼女は写真やテキスト、動画――使えるメディアは何でも駆使して自分の世界にユーザーを呼び込み、自らのブランドを確立した。恋愛やセックスについて一気に語ったかと思えば、次の瞬間にはIT業界の行く末についてまくし立てた。彼女はそれを「ありのままの人生」と呼んでいた。

やがてインターネットでは、ジュリア・アリソンの名前を聞かないことはない状態になった。ニューヨークタイムズ紙は2008年に27歳のアリソンを特集した。同年7月にはWIRED誌の表紙を飾った。彼女のコラムはニューヨーク版タイムアウト誌の表紙でも頻繁に引用され、ありとあらゆる大手TVネットワークにちょくちょく出演した。


COURTESY OF SIMON & SCHUSTER

メディアはパリス・ヒルトンの時と同じように、アリソンも「有名であるがゆえに有名人」なのだと言い放った。だがプロデューサーはひっきりなしに電話をよこし、編集者は彼女のおかげでクリック数が増え、雑誌の売り上げが伸びることを知っていた。アリソンもこうした効果を心得ていて、名声をさらに強力な社会的・経済的武器にするチャンスだと捕らえた。

「ブログに何か投稿すると、次の日きっとメールが来るだろうなと思ってた」と彼女は当時を振り返る。「例えば水着について投稿すると、次の日に水着メーカーからメールが来る。『あなたは何者ですか? サイトのアクセスを辿ったら、全部あなたのブログ経由なんですけど』って」。

水着の無料進呈は彼女の野望のほんの一部だった。「オペラ・ウィンフリーの番組で、スーズ・オーマンとかドクター・フィルみたいな人たちが各分野の旗振り役として称えられていることに気づいたの」と彼女は語る。「私の年代では通らないだろうな、と思った。私の世代はオプラの番組なんて見ないで、インターネットを見てるんだもの。だったらインターネットでそういう人を作ったらどうかしら、って思ったの」。

Akiko Kato

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE