最后のダンス・ステップ / クミコクミコ:これを松本隆さんがたまたま聴かれて、ちょっと変わっている人だから会ってみようということから松本さんとのご縁が繋がるということで。
田家:たまたま机の上に置いてあったCDの一番上にあった。
クミコ:処分する方と聴かなければいけない方の2つの山が別れていたそうなんですけど、私のはもちろん処分する方のなぜか上にあったという。これの一番下だったら今の私はないわけで。
田家:ですよね。名前も変わってなかったかもしれません。
クミコ:そうですね(笑)。
田家:「最后のダンス・ステップ」も銀巴里で歌われたんですか?
クミコ:そうですね。いろいろなものをあちこち取り上げていた中の1曲ですよね。これもすごく好きな人が多かった記憶がありますね。
田家:でしょうね。「最后のダンス・ステップ」はある種モダニズムの歌ですもんね。失われていくモダニズムの歌ですから。
クミコ:きっとそういうのがお好きな方、たくさんいらしていると思いますもんね。
田家:でも正統派シャンソンというところからはちょっと。
クミコ:はい、ちょっと外れておりました。
田家:でも銀巴里で育てられたんですね。やっぱり銀巴里で歌っていたことは大きな経験になってますでしょう?
クミコ:やっぱりそうですね。あんなに緊張したことはないですし、1日終わると2kg痩せたって自分で勝手に思うぐらい消耗していました。
田家:そこにいた厳しいお客さんもクミコさんを育てた親なのかもしれません。来週は私とシャンソンということでいろいろお話を伺おうと思います。
流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。
J-POPというのはどんな音楽か。西洋の音楽に影響されて生まれた日本語の音楽と僕は答えるようにしているんです。アメリカやイギリスが中心だったのですが、実はフランスの影響もとっても強かったんですね。その最たるものが宝塚ですよ。パリとシャンソンがなかったら宝塚は誕生していなかったと断言していいと思いますね。岩谷時子さんと越路吹雪さんという2人が象徴しています。フランス語の歌を日本語にして、日本人に聴かせたい。そこから始まりました。訳詞というスタイルもシャンソンがあったから定着していったと言っていいでしょう。
銀巴里が開店したのは1951年、戦後はまだ6年ですよ。大都市にはアメリカ軍が進駐していた。米軍基地の中でジャズやカントリーが歌われて、そこから洋楽が広まっていった。でも米軍基地の中ではヨーロッパの音楽はなかったですからね。で、シャンソン喫茶がそういうヨーロッパの音楽、空気、フランスの文化、それを日本に紹介していったんですね。最初はなかなか人が入らなくて、美輪明宏さんが街頭で歌ったりしながらお客さんを呼び込んで、銀巴里はシャンソンの殿堂になっていった。シャンソン1曲しか知らない、「サン・トワ・マミー」しか知らなかったクミコさんがそこでオーディションを受けて、プロになっていった。そして、今日の番組があるわけですね。クミコさんの今年の7月に出たシングルもそういうストーリーを象徴しております。シャンソンが日本のポップスにどういう影響を与えてきたのか。今月はお勉強喫茶の開店であります。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp 無料メールマガジン会員登録に登録すると、
続きをお読みいただけます。
無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。
今すぐ登録
会員の方はログイン