横浜の"ロック"ステーションTVKが音楽シーンに残した功績、兼田達矢と語る



田家:1980年のアルバム『プリーズ』の中の曲です。この本の最後に出演者と演奏曲が載っているわけですが、この曲は入っていない。兼田さんがこの曲を選ばれた理由があるんだろうなと。

兼田:単純に好きだからというのもあるんですけど、せっかく選ばせていただけるのでラジオだとあまりかからんだろうなという曲もかけたいスケベ心みたいなものもあって。

田家:この番組では流れているんです(笑)。

兼田:はははは(笑)。余計なこと考えたから、演奏時間が長い曲ばかりになってますね、申し訳ないです、すみません(笑)。

田家:さっきちょっと話に出たサンテレビは1969年開局のUHFで、TVKは1972年に始まっている。TVKが開局したときに「ヤング・インパルス」という番組が同時に始まっていた。「ヤング・インパルス」は僕ら観ているんですけども、もうちょっとフォーク系の番組だった印象があるんですよね。

兼田:そうだったみたいですね。「ヤング・インパルス」の最初のレギュラーアーティストもRCサクセションなんですけど、そのRCサクセションはフォークスタイルなんです。ちなみに2番目のレギュラーアーティストが海援隊でその次の次、4番目だと思うんですけどダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドなんですね。

田家:「ヤング・インパルス」の最初のゲストがRCだったんだ。

兼田:まさにフォークが中心だったのが、ダウン・タウンがレギュラーアーティストになるぐらいの時期にロック色が出てくるみたいな時代の流れも反映しているんだと思うんです。

田家:TVKの開局のときの話も書かれていましたけども、東京のキー局がメインカルチャーだったら、我々はサブカルチャーで行くんだ、そういう局の方針があったんですね。

兼田:そうですね。プロデューサーである住友利行さんにお話を聞いたものが中心になっているんですけど、住友さんの言い方で言うと局の方針というよりは同じことをやっていたら勝てないから、生き残るためにどうしたらいいか考えたらそうするしかなかった。社長さんが会議で方針としてこうだぜっていうことではないと思うんですよね。

田家:そこまで会社としての形がまだ出来上がっていなくて、住友利行さんというプロデューサーがわりと自分のやりたいようにやれた会社だったんだ。

兼田:そうですね。今回住友さんに話を聞いて知ったことの1つが、ラジオ関東という局のカラーの大きさ。ラジオ関東からTVKの開局に合わせて何人かスタッフの方が移籍されたらしくて。「ヤング・インパルス」の最初のプロデューサーは元ラジオ関東の方だったそうです。僕はそれこそ関西の人間だったので、ラジオ関東の番組は全然知らないんですけど、まさにTVKがやったように、よそがやらないことをやった局であり。テレビがどんどん盛り上がっていく中でラジオがどうやって生き残っていくかというときに、独自路線を貫いたラジオ局だったと教えてもらって、なるほどなと1つ勉強になりました。

田家:おもしろい話がありまして、宇崎さんが結婚して横浜に住んで、最初につけたテレビで流れていたのが「ヤング・インパルス」で「え、こんな音楽を取り扱っている番組があるんだ」と思った。それが「ファイティング80’s」に繋がっているということですね。

兼田:宇崎さんいわく、ちょうどキャロルが出てるときに点けたらしいんですよね。キャロルはほとんどテレビに出ないバンドというか、そもそもああいう音楽のバンドがテレビに出ることはほとんどなかったみたいですけど、そういうバンドがテレビに映っていることにびっくりしたみたいですね。

田家:で、「ファイティング80’s」が始まったときに自分たちのバンド名が番組のタイトルになってしまった。「ファイティング80’s」の1回目に出ていたのが佐野元春さん。兼田さんが選んだのは1981年のアルバムタイトル曲「ハートビート」。

Rolling Stone Japan 編集部

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