小田和正特集、PAエンジニア・木村史郎とライブや作品の歴史を語る



田家:木村史郎さんが選ばれた2曲目、1980年の「きかせて」。アルバム『We are』の中の最後の曲ですね。これはどういう思い出でしょう?

木村:私がスタジオ録音させてもらった初めてのアルバムなんです。

田家:このアルバムは「Yes-No」が入っているアルバムで、初めてアルバムチャート1位になった。彼らの転機になった1枚ですもんね。1976年にお茶の水女子大でPAのお仕事をされるようになって、アルバムは当時は別の方がやっていたんですよね?

木村:そうです。蜂谷量夫さんがやってらっしゃって、録音を初めてやらせてもらったのが『LIVE』っていうアルバムなんです。でも、スタジオ録音というのはこれが初めてです。

田家:やっぱりライブのPAをおやりになるのと、スタジオでレコーディングされるのとは違うものでした?

木村:私、スタジオレコーディングを全く知らなかったんです。

田家:あ、そうなんですか!

木村:とてもやりたい気持ちがあったんです。それで無謀にもやらせてくださいって言っちゃったんです。そしたらいいよってことで。

田家:この1980年というのは「Yes-No」がヒットした後、オフコースがブレイクして世間が注目し始めたときのアルバムですもんね。でも、そのときに初めてPAを手掛けるエンジニアを起用しているのも、バンドにとってはかなりの冒険だったでしょうね。

木村:そうだと思います。

田家:おやりになる方にもかなりの緊張感とプレッシャーもあったのでしょうし。

木村:ありました。ただ、自分の中でライブと同じ感じにしたかったんですよね。前のアルバムを聴いてもライブと違うんです。音が違うから、より良いものにしたいというのがあって、そういう気持ちでレコーディングをやりたいなと。

田家:史郎さんが加わった1976年は、オフコースのメンバーが正式に5人になったときですよね。

木村:まだ松尾くんが来たり、来なかったりしていたと思います。

田家:そういう意味では一歩一歩積み重ねてきた、次に新しいものをやりながらここまできた、いろいろな例の1つでしょうね。『We are』はエンジニアがビル・シュネーで、ロサンゼルスでミックスダウンも行われているわけで、そういう意味でもとても大きい。ビル・シュネーも初めての参加ですもんね。

木村:そうですね。私はテルマ・ヒューストンというボーカリストがいるんですけど、そのアルバムでビルは知っていましたね。

田家:あ、ご存知だったんだ。先週、朝妻一郎さんにゲストでお越しいただいて、小田さんがロサンゼルスでやりたいんだけどという話をされたときに、朝妻さんがパブロ・クルーズをやっていたビル・シュネーがいいなと思っていて紹介したんだと。そのときにちょうどボズ・スキャッグスが出たので、もっと知名度が上がったんだけどという話をしていました。

木村:ボズ・スキャッグスのアルバムのエンジニアプロデューサーですもんね。

田家:史郎さんはその前ということですね。

木村:そうですね。

田家:『We are』の1曲目「時に愛は」を聴いたとき、「え!」と思いましたもんね。音が変わっていて。当時小田さんが求めていたものはどういうものでしたか?

木村:音を求めているんじゃないような気がするんですけどね。

田家:何を求めていた?

木村:やっぱりメロディとかハーモニーを求めているんじゃないかと。

田家:でもドラムとかベースの聴こえ方とか変わってきているわけで。

木村:たぶん、ドラムの音は大間ジローと作ったような気がします。自分自身こういう音が好きだったんですよね。

田家:ジローさんと史郎さんがですね。そういう中でコンサートツアーが1980年、1981年、1982年とありました。オフコースは1982年の武道館10日間で一旦活動を休止するわけですが、その話はこの後にお聞きしようと思います。

Rolling Stone Japan 編集部

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