小田和正特集、PAエンジニア・木村史郎とライブや作品の歴史を語る



田家:木村史郎さんが選ばれた3曲目は「1985」。ソロの1枚目シングルです。初めてのソロアルバム、1986年に出た『K.ODA』の中の曲ですね。これを選ばれているのは?

木村:これはグルーヴがすごいんですよね。打ち込みじゃない、リズム隊が、TOTOのジェフ・ポーカロと、デヴィッド・ハンゲイトですからね。

田家:このアルバムをお聴きになったとき、オフコースと違うものができたなって感じが?

木村:しましたね。サウンドは全然違いますし、小田さんの歌がこの人たちに乗っかった感じがすごく新鮮だったというか。当時のオフコースは結構打ち込み系の音が多かったんです。そういうのをやっていたから、余計にこのソロアルバムがものすごく新鮮に聴こえました。

田家:4人のアルバム『as close as possible』はわりと打ち込みっぽかったですからね。

木村:そうなんです。あの時代はそういう打ち込みが流行っていたし、その中でこういうアルバムを出したのはとてもよかったと思います。

田家:この曲の入ったアルバムが出て、その後にツアーが2本行われて解散ということになるわけですね。1988年から1989年の最後のツアーは「スティル・ア・ロング・ウェイ・トゥー・ゴー」102本、最後は東京ドームでしたけど、このツアーはどんなふうに思い出されますか?

木村:実は最初は参加してないんです。85年のツアー「The Best Year of My Life」のときに自分でも納得いかなかった部分があってとても悔やんでいたんですけど、思っているような音が出せなくて、それで結果的に一度外れたんです。で、夏から復活したんです。

田家:それはやっぱり離れられるときは複雑な思いがあるわけでしょ?

木村:自分でも納得していなかったから、そうなってもしょうがないのかなと思っていた部分はあったかな。けど、またやってくれと言われたときは素直に喜んだ記憶がありますね。

田家:あれだけ長いツアーでしたから、いろいろなこともあったんでしょうが。やっぱりバンドも音を出す方も精一杯のことをやっても、どこかで一度離れたりしなければいけないときもある。

木村:まあ、大概離れたらそのままですけどね。ありがたいことにまた戻って。

田家:それがあるから今がある。それは初めて耳にしたエピソードでもあります。

Rolling Stone Japan 編集部

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