ベルウッド・レコード・三浦光紀が語る、西岡恭蔵との出会いからはっぴいえんど解散まで

留子ちゃんたら / ごまのはえ

田家:伊藤銀次さんのバンドであります。銀次さんは中野サンプラザのステージにも登場されますね。この曲については?

三浦:この曲は大阪にザ・バンドを意識している、なかなかいいバンドがいるっていうのを聞いて、テープを送ってもらって聴いたらいいなと思ったんです。プロデューサーを細野さんか大瀧さんでと言われたので、大瀧さんの方が合うかなと思って、大瀧さんに電話して「大阪に見に行かないか」って言ったんですよ。それで2人で行って、学園祭だったと思うんですけど、聴いたらギターもすごく上手かった。大瀧さんはやっぱりドラムがすごいって言ってましたね。ニューオリンズ風のドラムだと。銀次さんが21歳ぐらいかな、あとは全員10代だったんですよ。ゆかりさんとか角谷くんとかも、みんな10代で。すごく上手だなと思って、大瀧さんが気に入って東京に連れてきたんです。それで自分のとこに住まわせたんですよね。ココナツバンドって名前を変えてアルバムを出そうと思ったんですけど、結局出なかった。

田家:1973年9月21日の文京公会堂でココナツバンドとして登場するわけですが、そこに至る話が今週のテーマになるんでしょうね。 関西から上京してきて三浦さんの家に居候してきたアーティストというのが何人か居まして、その中の1人です。西岡恭蔵さん「プカプカ」。



田家:1972年7月発売、西岡恭蔵さんの「プカプカ」。1stアルバム『ディランにて』からお聴きいただきました。12月にシングルカットされた曲ですね。西岡恭蔵さんは三浦さんがレコードを出したいということで始まったと。

三浦:あがたさんが「赤色エレジー」をレコーディングしてる最中に僕の家にあがたさんが西岡恭蔵さんと友部さんを連れてきて、3人がいろいろ音楽の話をしてる中で、それぞれの持ち歌を披露し合っていて。そこで恭蔵さんの歌う「プカプカ」を初めて聴いて、すごく歌上手いなと思って声をかけたんです。そしたらその気になってくれて、恭蔵さんが僕の家に居候することに。バックをやってる田中さんと林くん、とんちゃん。この2人も当時16〜17歳で家出少年みたいなもんですよ。2人も僕の家に居候していて、恭蔵さんの最初のレコーディングでは、ドラムが林さんでベースが田中くん。またこの田中くんのベースがすごくて(笑)。細野さんが自分の後釜だって言うほどのベーシストだったんです。

田家:あがたさんも渡さんも恭蔵さんもそうですが、レコード出しませんかって言いに行く時はどういう心境なんですか?

三浦:結局僕は当時無名のディレクターですから、普通はプロダクションからとか会社から僕にタレントがあてがわれる。でも誰もあてがってくれないわけじゃないですか。しかも無名だから誰も向こうから来ないわけですよ。だから何回も断られても、自分で行く以外ないんです。そういう感じ(笑)。

田家:なるほどね。無名だからできたということになるかもしれませんね。恭蔵さんの曲をもう1曲お聴きいただきます。1972年発売、西岡恭蔵さんの1枚目のアルバム『ディランにて』から「サーカスにはピエロが」。

Rolling Stone Japan 編集部

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