吉田豪が翔とTAKUと語る、故・嵐ヨシユキの思い出と「横浜銀蝿」の軌跡

「銀蝿を第二のドリフターズにする」

―ボクが最初に嵐さんを取材した17年前(2005年)も脳梗塞から復帰した直後で、「病院から逃げてきた」みたいな話をしてましたね。

翔 病院が嫌いで1秒でもいたくないんだよね、あの人。

―そう考えると、そこからだいぶ頑張りましたよ。

翔 ホントに頑張ったと思う。他の腎臓の病気とかもいろいろ抱えながらも、それでもリーダーとして銀蝿をやるんだっていう思いがすごく強く、銀蝿のことしか考えてないから。そのなかでも俺は自由に楽曲を作ってコンサートやって、嵐さんが調子いいときは歌ってドラム叩いて、まだまだふつうに続くんだろうなと思ってたから、なんか……まだ信じられない。銀蝿でやってきたのは42年間だけど、俺がこの世に生まれてから64年間、嵐さんと一緒にいて、50年は一緒に不良やって。

―身近にいる不良の先輩として。

翔 そうそう、先輩として車に乗ったりバイクに乗ったりっていう歴史としては50年だよね。でも、60年も70年も一緒になんかやれるつもりだったから、気持ちの整理はまだついてないんだよね。今日の段階でお別れ会が1週間後にあるから、そこで乗り越えられるかなとは思ってはいるけど、そこにファンが来たりいろんな人が献花に来てくれたらまたつらくなっちゃうのかな。だから最近は忘れるとか乗り越えるとかしなくていいかなと思ってるよね。

―あえて引きずり続けて。

翔 うん、引きずり続けてもいいんじゃないの? って自分では思うようになったかな。

TAKU 俺も高校出たての18歳から嵐さんといるじゃないですか。しかも自分のことを最初に拾い上げてくれた人って嵐さんで、そこからすべて始まってますから。そういう意味ではなんとも言いようがないというか、ずっといたからさ。

―銀蝿以前からですもんね。

TAKU そうそう、それこそキャッシュ(嵐とTAKUがメンバーだった横浜銀蝿の前身バンド)の頃からね。最初は実感ないじゃないですか。でもこの頃、実感が出てきてるから余計キツかったりはしますよね。いまこうやって翔くんとふたりでいて、ステージもあとはサポートの人たちじゃないですか。じゃあ今後どうしていこうかとか、そういうことも考えつつ、ちょうどいま微妙なところっていう感じ。石原裕次郎さんが亡くなったとき、石原軍団はその後どうなるんだろうって思ったのと同じで、翔くんは渡哲也で俺は舘ひろしかな、みたいなことを考えたり。だって、最初に「この指とまれ」をやった人がいない状態じゃない?

―嵐さんがいなかったら銀蝿は存在しないですもんね。

TAKU そうそう。

―だからこそ、あまりドラムが叩けなくなってからも象徴として在籍していてほしかったわけですよね。

翔 いるだけで横浜銀蝿だったからね。

TAKU やっぱりリーダーなのよ。リーダーって必要じゃないですか。嵐さんがドラムそんなにうまいかっていったらうまかないし、聖人君子みたいに立派な人柄ですごく勉強させてもらえるかっていったらそうでもないけど、でもやっぱり機関車みたいなところがあって。機関車って突破する力と引っ張る力が両方あるってことじゃん、ホントそんな感じの人物だったんで。

―インタビューしても問題発言しかしないような人でしたからね。

翔 そうそう(笑)。問題発言ばかりだからね。

―「入院中も女が鉢合わせしないようにするのがたいへんだったよ」みたいなことしか言わない(笑)。ただ、そんな嵐さんのグループを引っ張る力みたいなものに魅力を感じていたんですかね。

翔 そうだね、やっぱり銀蝿のこと一番考えてましたよ。嵐さんがいろんなこと考えてるから俺らは自由にできた部分もあるので。

―そして、嵐さんしか知らない部分が相当あったと思うんですよね。嵐さんと亡くなった大坂(英之・ユタカプロ社長)さんしか知らないことが、これで解明されないままになっちゃったのかなって。

翔 そうだね、豪は解明したいんだもんね。

―そうなんですよ。昔、嵐さんには確認したことあったんですけど。最初に事務所に入ったとき、「銀蝿を第二のドリフターズにする」とか「欽ちゃんファミリーに入れる」とか言われたって話があって。おふたりは当時そんな話を聞いてました?

翔 聞いてない聞いてない(笑)。そんな話、きっとごまんとあると思うんだよね。俺たちの出してくる楽曲だとかスタイルだとか、そういうもので方向性が多少変わってきたんだろうけど、きっといろんな案はあったと思うよ。もともとアイドルの事務所だったからね。

―そういう芸能ノリのプランをいろいろ出されて、それをどう修正していくかっていうところで嵐さんが戦っていたのかもしれない。

翔 だと思うんだよね。そこには嵐さんがいたから、「これは嫌だ」とか、そういう戦いもあっただろうし。

―銀蝿がその話に乗らなかったから一世風靡セピア周辺の人たちが欽ちゃんファミリーに入ったりしたんだろうなと思ったんですよ。

翔 ハハハハハハ! なるほどね。

―不良っぽいテイストを入れようとしてた時期があったんだろうなっていう。そのへんの窓口は全部嵐さんに任せてたんですか?

翔 全部嵐さん。

―メンバーは一切タッチせず。

翔 俺らは楽曲を作って練習して、どういうパフォーマンスをしようかとか、コンサートの流れとかなんかは俺らが決めてたけど、そうじゃない大きな流れでどこに行くとか何をしようとかは全部嵐さんで。テレビの番組が決まったら、出るのは好きだったからドリフの番組にも出たし欽ちゃんの番組にも出たけど。

―ハッピを着てドリフと踊ってたんですもんね(笑)。

翔 そうそう。横浜銀蝿という確立したグループのメンバーとして行ってたからそれは腑に落ちてたし、この流れでいいんだろう、と。(ビート)たけしさんと番組でくだらないコントやったりもしたけど、それも銀蝿の嵐、銀蝿の翔っていうところでの出演だから、自分としてはこれでいいんだっていう形で。あとは音楽番組だよね。そういうのでやってきたけど、そこでのいろんな葛藤だとか方向性を決めることは嵐さんのなかだけでやってたんじゃないかな。

―TAKUさんも芸能活動は、とりあえず言われたことはやっておこう、みたいな感じで。

TAKU うん。あと俺、銀蝿解散後は日音(音楽出版社)に入ったじゃないですか。だから外部の会社として嵐さんを見てたわけよ。ずっと一緒にいるとわからないことが、他の会社の人として出会うと気づくことっていっぱいあるじゃん。ちょうど俺が30歳から35歳までいたんだけど、そのとき違う目線で思ったこともあったよね。

―すごいなと思うところもあれば、ダメでしょこれっていうところも。

TAKU そうそう、ふつうじゃない部分もわかった。だって嵐さんといるときはそれがふつうと思ってるじゃん。

―それしか知らないですからね。

TAKU そうそうそう。大坂さんもそうなんだけど、あとから思えばふつうじゃないっていう。逆に言うと銀蝿にとっては大坂さんにしても嵐さんにしても、それがちょうどいい具合だったと思うんだよね。きっとJohnnyもそれはわかってると思うんだよね。

―キングレコードでちゃんとした音楽ビジネスを知ると、「どうなんだ?」って思ったりもしただろうし。

TAKU 逆にキングと嵐さんの板挟みになってキツいときもあっただろうしさ。ただ、そういうのも含めて全部嵐さんとの出会いで始まってるので。おかげさまで18歳からずっと、いま62歳なんですけど、ずっと音楽やってこられてるわけじゃないですか。一番最初に俺の可能性を信じてくれたのは嵐さんだろうし。嵐さんの還暦アルバムも、最後に嵐さんが歌った曲も俺にアレンジをやらせてくれたり、最初から最後までクリエイティブなことに関して俺のこと信じてくれてたのは嵐さんだなって思いますね。

―こういう不良バンドがJohnnyさんとTAKUさんという音楽業界のプロをふたり産み出したっていうのも不思議ですよね。

翔 ホントだよね。迷うこととかも色々あったけど、結果ここまでやってこられていまもまだ頑張れる状況にいるっていうのは、嵐さんの選択は間違ってなかったんじゃないかなと思うよね。

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