森山良子の歌手人生、すべてが歌になっていった55年の歴史と現在を本人とともに語る



森山:これはまだデビュー当時、寺島尚彦さんという作詞作曲された方、ピアニストでもあったんですけどその方からぜひこういう歌があるので歌わないですか? と言われて。まだ私は20歳そこそこかな。

田家:1969年のアルバム『カレッジ・フォーク・アルバム』に入っていたんですもんね。

森山:そうですね。20歳にもなってないか(笑)。びっくりしちゃって、当時ベトナム戦争とかでアメリカンフォークはそういう動きがあって、そういう歌はコピーして歌っていましたけれども自分がこういう歌を歌うことを想像したことがなかったので、これはちょっと歌えないなと。身に余ったと思ったんです。でも、当時ちょうどアルバムのレコーディングの最中だったんです、本城ディレクターにこういう曲をいただいたんだけども、本城さんどう思う? 私はとても自分では歌いきれないと思うんだってお話をしたら、これは素晴らしい曲だからレコーディングをしようって。ちょうどレコーディングしていたアルバム『カレッジ・フォーク・アルバム』の中に収録はしたんです。でも、ほんっとうに歌いきれない自分がなんかやるせなくて、曲に申し訳ないというか。それでずっとずっと歌わないんですけど、アルバムは当時よく売れていたのでコンサートに行くと、「さとうきび畑」ってリクエストの声がかかるんですね。そうすると歌ってみるんですけど、歌うそばからうわー歌えてない……!ってそういうことを何回も繰り返していくうちに結局封印してしまうことになるわけです。それから年月がどれぐらい経ったのか。

田家:30年(笑)。

森山:そうですね。湾岸戦争の頃に私のコンサートを観に来た母が「あなたね、こんな愛だの恋だのチャラチャラした曲ばかり歌わないで、あなたには今歌うべき曲があるでしょ」って。

田家:お母様が言われた?

森山:そうなんです。

田家:えーー!

森山:「ちゃんちゃらおかしいわ」って言われたんですよ。そういう強いことを言う母なんですね、特に私の歌に関しては。それでどの曲を指しているかもよく分かったし、たしかにそうだな、私はちょっと逃げていたなと思って、それで「さとうきび畑」をもう一度紐解いて目を通しながら歌ってみたら、今度は「さとうきび畑」の方からぐーんっと自分に近づいてきてくれて、そんなに難しく考えることないよって、この詞とメロディをお客様に届けるだけでいいんだよってふうにささやいて肩をポンポンと叩いてくれたような気がして。そこからふーっと近くなって、今は欠かすことなく聴いていただいている曲ですね。

田家:良子さんが選ばれた今日の2曲目「涙そうそう」。

Rolling Stone Japan 編集部

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