J-POPの歴史「1990年と91年、音楽業界の規模が倍々ゲーム的に大きくなった始まり」



91年7月発売、フリッパーズ・ギターのアルバム『ヘッド博士の世界塔』から「Groove Tube」。このときは小山田圭吾さんと小沢健二さんの2人組。デビューしたときは5人組でした。送り出したのがポリスターの牧村憲一さん。「J-POP LEGEND FORUM」でも1カ月間彼の特集をしたことがありました。

デビューアルバムは、89年『three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった』。全曲英語だったんですね。90年の日本語のアルバム『CAMERA TALK』というのが出て、もっとポップになりました。初めて彼らを見たのが『CAMERA TALK』が出た後の渋谷のクラブクアトロですね。渋谷系。でも、そのときは渋谷系って呼び方がまだなかったんじゃないでしょうか。フリッパーズ・ギターもネオアコっていう括りでしたからね。ライブもかわいらしい、とってもおしゃれで、でもどっかクセあるようなこの2人っていう感じの若々しい雰囲気で、音楽雑誌「PATi・PATi」ではパーフリちゃんと呼ばれてましたからね。

この『ヘッド博士の世界塔-』は衝撃でした。サンプリングっていう言葉自体がやっと耳に入るようになった時代で、サンプリングのアルバム、これはどうやって作ったんだろうとか、この曲の権利関係はどうなってるんだろうってことを周りのメディアの人間が心配するような、そういう新しさがありました。

このアルバムが出たあとに、TOKYO FMホールを最後に解散しちゃうんですね。最後のコンサートを観に行ったんですけど、ライブの印象よりも、終わってからロビーで公衆電話で電話していたときに、2人が出てきてバラバラで帰ってくんです。その帰ったときも飄々とした何事もなかったような感じで別れて行った。解散コンサート、最後のコンサートだよなっていう拍子抜けをするような感じがあったんですが、そういう淡白さというのも、都会っ子ならではだったんだなというふうに改めて思ったりします。

街角でも、メディアでもいろんな変化が起きていた90年、91年。個人的にもとっても大きな出来事があったんで、そんな話をこの曲の後にしてみたいと思います。浜田省吾さんの「詩人の鐘」。



1990年6月発売、浜田省吾さんのアルバム『誰がために鐘は鳴る』から「詩人の鐘」。89年に中国で天安門事件がありました。そしてヨーロッパの独裁政権が、民主化の波に洗われて、次々と変わっていった。で、ベルリンの壁が崩れました。91年の12月にはソ連邦が消滅したんですね。それが2022年のウクライナ侵攻に繋がってるんじゃないかと思ったりしますが、世の中も大きく変わっておりました。

そのときに私は浜田省吾さんの「ON THE ROAD '90」に同行したんです。1990年7月から91年3月まで全83本。全行程がスタッフ移動。朝9時にホールに入ってセッティングをして、リハーサルを見て、本番も立ち会って、その後にバラしをして、スタッフと一緒にホテルに戻って飯を食いに行って、次の街に行くという全国の旅をしました。東京のコンサートを観て、終わってから楽屋に行って、いや良かったですよみたいな、これが日常だったんですが、それでいいのかなと思っちゃったんですね。コンサートツアーというのはいろんなドラマがあるわけですし、僕らが知らないところで動いてるんじゃないか。コンサートツアーとは何なのか知りたくなったんですね。そうやって旅をしていた。

さっき「真夏の果実」のことにちょっと触れましたけども、いろんな街に行っても「真夏の果実」が流れてたんですね。いろんな商店街の街頭放送とかラジオとかで、多分一番たくさんの街であの曲を聞いたのが僕ではないかと思ったりしますね。1人で街を歩いてるときに、東京は今何やってんのかなとか、業界はどうなってるのかなとか、いろんなことを考えながらこの曲を聴いてて、とっても切なくなったという、「真夏の果実」の記憶であります。

Rolling Stone Japan 編集部

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