目立ちたがりのアバズレ? 米インフルエンサー界の草分け的存在が振り返る壮絶な過去

10年前から時代を先取りし、ブログで自分をブランド化したジュリア・アリソン――現代のクリエイターとやっていたことは変わらないが、悪意に満ちた女性蔑視の標的にされた(JOSEPH PICKETT/ © JULIA ALLISON)

テイラー・ロレンズの著書『Extremely Online』は、ジュリア・アリソンによってコンテンツクリエイターという概念が生まれた経緯をつづった書籍だ。本書より一部記事を引用掲載する。

【画像】触る、舐める、挿れる、極悪非道なレイプ犯

インターネット黎明期、ジュリア・アリソンほど理解されず、悪意にさらされた人物はいなかった。2000年代中期、アリソンは複数のプラットフォームを駆使するコンテンツクリエイターとしてインターネット界を独走していた。だが当時、彼女の活動を表現する言葉がなかったこともあり、実際は誰からも認められなかった。今ならインフルエンサーと呼ばれていただろう。当時は大勢の人々、とりわけメディアが女性蔑視に走った。ジュリアはジャーナリストや評論家、ネット右翼から悪者扱いされ、こっぴどく叩かれた。

ジュリアの物語はインターネット文化の形成に貢献した女性たちの物語でもある。こうした女性たちは全く新しいキャリアの道を切り開き、いまや5000億ドル規模のコンテンツクリエイター業界をゼロから立ち上げ、従来の名声や権力の概念を打ち砕いたが、払った代償も大きかった。彼女たちの名前はシリコンバレー企業の物語から抹消され、彼女たちの生活はネットアンチからズタズタにされ、メディアからは今もなお、おバカな「イット・ガール」として軽んじられている――メディアで取り上げられるだけでもマシというべきか。こうした女性たちの境遇はこれまで一度も顧みられず、再検証されることもなったため、私は新著『Extremely Online: The Untold Story of Fame, Influence, and Power on the Internet(原題)』にアリソンの物語を書き加えた。これまでジュリアが公の場で評価されることは一度もなかった。だが、メディアやテクノロジー関する彼女の予想はことごとく現実のものとなっている。

***

2002年、ジョージタウン大学の2年生だったジュリア・アリソンは、学生新聞で男女交際をテーマにしたコラム「Sex on the Hilltop」の連載を始めた。ちょうど『セックス・アンド・ザ・シティ』がTV業界で話題をさらっていたころだった。彼女のコラムは学内の話題となり、アリソンはジョージタウンのキャリー・ブラッドショウのような存在だった。大学の所在地がワシントンDCだったこともあり、コラムは全米で報道された(若手議員との交際を匿名で記事にした時、ワシントンポスト紙はすぐに議員の身元を公表した)。歯に衣着せぬ彼女の物言いは学生の間でも好評だったが、数カ月もしないうちに卒業生や一部の学生から怒りを買うようになった。「セックスの記事はそれほど多くなかったんだけど」とアリソンは語った。「でも、ジョージタウンの保守的な人々はおかんむりだった。私に怒りが集中したわけよ」。それでも、アリソンはやがてコスモポリタン誌やセブンティーン誌といった全国メディアの見出しを飾るようになった。映画プロデューサーのアーロン・スペリングが映画化の権利を持ちかけるほどだった。この時彼女はまだ21歳だった。

2004年に卒業してニューヨークに移り住むころには、アリソンの未来も前途洋々と思われた。彼女には間違いなく人を惹きつけるところがあり、怖いもの知らずな部分もあった。雑誌に載ったことを足がかりに、ニューヨーク市のメディアでライターの仕事をするのが目標だった。自分のTV番組も持ちたいとまで考えていた。その年彼女がニューヨークで叶えたい夢のリストには、「カルト的人気者」という項目も書かれていた。

ニューヨークに着いた途端、アリソンは街中の編集者にメールを送りまくった。だが分厚い壁に阻まれた。少しばかり雑誌で取り上げられ、大学新聞でコラムを書いただけでは、由緒ある大手雑誌社の編集長の気を惹くには至らなかったのだ。最終的にAMニューヨーク誌という日刊フリーペーパーから週1のコラムの仕事をもらった。ギャラは週50ドルだった。

同じ年、作家のトム・ウルフが本の宣伝ツアーをしているのを見たアリソンの頭にある考えがひらめいた。ウルフ氏はどこへ行くにも、代名詞ともいうべき白いスーツを着て登場した。「彼はある種のブランドだ」と彼女は気づいた。「私も存在を知ってもらって、名前を売り込まなきゃ」。ウルフ氏はひと昔前に自らをブランド化した。だがアリソンがお手本にしたのはウルフ氏だけではなかった。

アリソンはラストネームのバウワーの代わりにミドルネームを使い、「ジュリア・アリソン」名義で執筆活動を始めた。彼女は精力的に活動した。AMニューヨーク誌にコラムを書き、リアリティ番組のパイロット版のオーディションにも参加して、実際に出演もした。TVに出てデートのアドバイスもした。そして2005年にブログを始めた。

それほど大きな野望をもってブログを始めたわけではない。最初はAMニューヨーク誌のコラムに書ききれなかったことを載せるはけ口のつもりだった。話題は恋愛生活や食べ歩きなどだった。やがて、「頭からつま先まで」バッチリ決めた(手ごろな価格の)コーディネイト写真を投稿するようになった。Tumblrで#gpoy(自己満足写真(gratuitous picture of yourself)の頭文字)と呼ばれる類の写真だ。アリソンの投稿は、従来の女性誌がまねできない形でミレニアル世代の女性たちの胸に響き、共感を呼んだ。多くのブロガーと同じように、彼女も小規模ながら成長の兆しが見えていたオーディエンスと関係を構築できる媒体を見つけたのだ。


2009年、ブライアントパークで行われたファッション・ウィークのパーティに出席したジュリア・アリソン(KATY WINN/GETTY IMAGES)

やがてアリソンは、自分が追い求めていた紙媒体の仕事には先がないという結論に達した。彼女はブログに力を入れ、2006年には注目を集め始めた。

当時ニューヨーク最大の影響力を誇っていた(かつ噂の的だった)オンラインメディアがGawkerだった。アリソンはGawkerの問い合わせ窓口に自分の記事のリンクを大量に送り付けた。Gawkerの記事にコメントする際には、自分の記事のリンクを添えることもしばしばだった。

注目を集めるために他人の投稿に遠慮なくコメントするのは今では日常茶飯事だが、当時は忌み嫌われた。Gawkerの社内記者はすぐさま、「図々しい売名行為」と彼女を非難した。

アリソンはめげなかった。2006年にGawkerの創業者ニック・デントン氏が開いたハロウィンパーティに、避妊具の包装紙で作ったドレスを着たアリソンが「コンドームの妖精」として登場すると、さすがのデントン氏もこれ以上無視できないと悟った。翌日、Gawkerのクリス・モネイ氏はデントン氏の要請で、「街の噂:ジュリア・アリソン」という800字の記事を投稿した。投稿は悪意に満ち、辛辣な言葉で目立ちたがり屋のアリソンを非難した(いかにも2006年のニューヨークらしく、有名写真家パトリック・マクマラン氏の知り合いではない点をバカにした箇所もあった)。記事の小見出しはずばり、「彼女は自分を何様だと思っているんだ? 自分に影響力があるとでも?」。とはいえ、「そこら中で彼女の姿を見かけるようだ」とも認めている。

記事は拡散し、悪意に満ちた記事は悪意に満ちたコメントを呼んだ。取り乱したアリソンは3日間泣きあかし、編集部に記事の撤回を訴えた。編集部に拒まれると、彼女は反撃を誓った。コンドームに覆われたドレス姿でお尻をカメラに向けた写真をブログに投稿し、「背景Gawker様。ケツにキスしな」と見出しをつけた。

アリソン対Gawkerの長きにわたるインターネット対決の始まりだった。これをきっかけに双方に注目が集まった。Gawkerの編集者はアリソンを、賛否両論分かれるお騒がせ者の再来として「我が社のパリス・ヒルトン」と呼んだ。批判的な人々に言わせれば、彼女は身の程知らずの「ナルシスト」。ファンにしてみれば、彼女は道なき道を切り拓く機転の利いた淑女だった。誰の目から見ても、彼女はとらえどころのない新手のセレブリティだった。

Akiko Kato

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE