追悼キース・フリント:ザ・プロディジー絶頂期の秘蔵インタビュー「人生を楽しんで何が悪いんだ?」

1997年8月21日刊行、米ローリングストーン誌の第767号で表紙を飾ったザ・プロディジーのキース・フリント(Photo by Peter Robathan/Katz/Outline)


プロディジーの核であるリアム・ハウレットが生まれ育ったロンドン郊外のエセックスは、アメリカでいうニュージャージーのような位置付けであり、文化的に豊かとは言い難い。彼が初めて夢中になったバンドは、父親が買ってきたスカのコンピレーションで知ったスペシャルズだった。裏ジャケットのトリルビーとスーツとサングラスを身にまとったすきっ歯の男たちに、彼はハードな反骨精神とエッジを感じ取った。彼は当時から現在に至るまで、メインストリームの音楽に夢中になったことは一度もないという。

ハウレットが次に出会ったのはヒップホップだった。きっかけは友人の兄が持っていた、グランドマスター・フラッシュの初期の12インチだった。イギリスで生まれ育った若者にとって、その音楽は果てしなくエキゾチックで秘密めいており、謎に満ちていた。「パンク以降初めて登場したDIYな音楽だと思った」彼はそう話す。「これなら自分にもできるかもしれないと感じたんだ」彼はターンテーブルを手に入れ、ブレイクダンスを習い(得意技はウインドミルだった)、グラフィティにハマり、『ビート・ストリート』を数え切れないほど観たという。ハウレットは学校の仲間たちとPure City Breakersを結成し、毎日お昼休みには体育館で2つのクルーがクラブでブレイクダンスを披露する『ビート・ストリート』のワンシーンを真似ていた。

「その魅力は音楽だけじゃなかった」彼はそう話す。「とにかくリアルで、ストリートの匂いがはっきりと嗅ぎとれた。これがゲットーなのかって思ったし、自分のいる場所とは無縁だと分かっていたからこそ、すごく特別なものとして映った。周りにその魅力を理解できる奴がいなかったから、俺はいつも独りで楽しんでた。部屋にこもって曲を爆音で聴くことさえできれば、他のことはどうでもよかったんだ」

ハウレットはCut 2 Killというヒップホップのグループに加入したが、実際にシーンに身を置いてみると、外から眺めていた時に覚えた魅力(圧倒的なエキゾチシズムと手に入らないが故の憧れ)が薄れてしまったと感じた。その時初めて彼は、それがエセックス出身の白人が受け入れられる世界ではないことを悟った。


Cut 2 Killが1990年に発表した「Listen to the Basstone」

彼が次に経験した大きな出会い、それはレイヴのシーンだった。80年代後半にイギリスの各地で行われていたダンスパーティーの祝祭ムードと、サイケデリックなドラッグのエクスタシーに魅せられていたユースカルチャーに、彼は強く共感していた(ハウレットの初のレイヴ体験を加速させたのは、エクスタシーではなく半分に切ったアシッドのタブだった)。これこそが自分の居場所だと感じた彼は、レイヴパーティにDJとして出演するようになった。また彼はその頃から、サンプリングを駆使したオリジナルのインストゥルメンタル曲を作るようになった。

以前ハウレットはバンド名をシンセサイザーのMoog Prodigyからとったと語っていたが、それは事実ではない。当時18歳だった彼は、単に人々の興味を引くためにその名前を選んだという。「いかにもBボーイっぽい去勢の張り方だろ」彼はそう話す。「グランドマスター・フラッシュだって、自分をでっかく見せようと尊大な名前をつけてるしな。あの名前を思いついた時、それが4人組のグループ名になるとは思いもしなかった。ザ・プロディジーってのは、ベッドルームでしこしこ曲を作ってる俺のことだったんだよ」

リーロイ・ソーンヒルとキース・フリントもまた、レイヴの世界の住人だった。筋金入りのダンサーだった2人はハウレット本人からDJセットのテープをもらい、そのB面に収録されていた彼のオリジナル曲に衝撃を受け、その曲をライブでやる時には自分たちに踊らせてほしいと申し出た。初めてのライブが決まった時、ハウレットはグループにMCを加えようとしていた。その時に友人たちから紹介されたのが、レゲエMCを目指していたマキシムだった。その後ハウレットはレコード契約を交わしたが、その事実を他のメンバーが知ったのはすべての手続きが済んだ後だったという。プロディジーのレコード契約書には、今現在でもハウレットの名前しか記されていない。


1992年のライブ映像

キャッチーなサンプルと狂ったようなブレイクビートが特徴の初期の楽曲は、イギリス国内ではヒットを記録したものの、大衆向けのお手軽品だと揶揄されることも多かった。ハウレット自身、グループのルーツであるレイヴシーンがそのピュアさを失いつつあると感じていた。神聖だったはずのそれは、もはや単なる恒例行事と化しつつあった。

フリントは当時についてこう語る。「光る棒、アルミホイル、グリッター、それに『未来的』なんて言葉が使われ始めた頃からおかしくなった。とどめを刺したのがインターネットだ。あんなもん、パーティのシーンにとっちゃ害悪でしかない。インターネットなんてクソ食らえだ。プレイステーションもな。倉庫でパーティするのが俺たちの日常のはずだろ? 深夜1時頃に道を塞いじまうぐらいの数の車が大通りに停まっててさ、警察から窓越しに『ここは駐車禁止だ』なんて言われようものなら『うるせぇ! 誰がなんと言おうと俺はここに停める。持っていきたきゃ持っていけよ、車なんてくれてやる。俺はあの建物に行ってひたすらパーティするんだ』って返したもんさ。追っかけてくる警察を振り切って、その建物に窓から飛び込んで内側から鍵をかけちまうのさ。そのうちにヘルメットやら警棒やら盾やらを持った武装警官が犬を連れてやってきて、俺たちは力ずくで引きずり出されたもんさ。アルミホイルとかプリント基盤、それにクラフトワークなんてのは、あのカルチャーとはまったく無縁の存在なんだよ。あれは反抗の手段だったんだ。反乱さ! 何十年か経てば、あれは60年代のヒッピーの若者たちが夢見ていたものと同じくらいロマンチックだったってことがはっきりするだろうよ」

プロディジーの1994年作『ミュージック・フォー・ザ・ジルテッド・ジェネレーション』は、シンセサイザーのドローンサウンドとタイプライターを叩く音で幕を開ける。続いて聞こえてくるのはアメリカ訛りのナレーションだ。「私はアンダーグラウンドへ回帰することにした、奴らの手から自分のアートを守るために」それはプロディジーの新たなマニフェストであり、オーディエンスが掲げた両手を左右に振るようなダンスミュージックのノリは希薄になっていた。ハウレットがアルバムの完成間際に書き上げた、マキシムのがなるようなヴォーカルをフィーチャーした「ポイズン」は、バンド史上初めて明確にフロントマンを据えたトラックだった。同年、バンドはデンマークで開催された大型ロックフェスティバルで、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、バイオハザード、スイサイダル・テンデンシーズ等と競演を果たした。ハウレットが感じていた手応えは、バンドの次なるステップへの糧となった。


Translated by Masaaki Yoshida

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