ミッキー吉野、70歳記念アルバムを本人とともに語る

DEAD END ~ LOVE FLOWERS PROPHECY / Godiego

ミッキー:この頃ってまだゴダイゴのレコーディングでドンカマ使ってないんですよ。今はずっとクリック使うじゃないですか。『西遊記』も使うか、使わないかぐらいですからほとんどがクリックなしで、せーのでやってる。

田家:そのよさもあるわけですよね。

ミッキー:あるんでしょうね。走ったり、もたっていくというか、レイドバックしていったりとかね。

田家:KADOKAWAの「ゴダイゴ公式本」を見ていて、1977年にトミー・スナイダーさんが参加しているわけですけど、彼と出会ったときの話が「え、こういうことだったの」と思った一行がありまして。マサチューセッツ州ターナーズホールズのコミューン。ルネッサンスチャーチにミッキーさんとスティーブさんが訪れた。どんなところだったんですか。

ミッキー:その町にバンドで仕事に行ってたんですよ。そこにコミューンの人たちが観に来て。それでぜひ遊びに来てくれって言われて行ったら、飛行機は持ってるし、楽器屋も持ってるし劇場も持っているという。要するに西海岸の方のコミューンはグレイトフルデッドが中心じゃないですか。東の方はラパンゼルって人がいたんですけど、ターナーズホールズの有名なコミューンだったんです。アーティストとか弁護士とかいろいろな人が集まかいっていて、こんなことってあるのかと思いましたね。

田家:ちゃんとした都市機能もあるんですね。当時、『イージー・ライダー』みたいな映画があって、アメリカのコミューンはテント村みたいな場所にヒッピーが集まっている的な紹介のされ方をすることが多くて。実際にそういうコミューン、チャーチはどういうところだったんだろうと思ったんです。

ミッキー:町の半分以上はそのコミューンが持っていて。ただ、もう70年代ですからヒッピーって感じよりも、もっとオルガナイズされた、全部持っているような。何しろ弁護士がいるっていうだけで違うじゃないですか。そういう雰囲気ですよね。なんでも自分で考えて、経済もコミューンですからみんなからお金を集めて増やしていく。

田家:サンフランシスコにあったコミューンから出てきたのがアップルの創業者、スティーブ・ジョブズだったりするわけですもんね。そこまでちゃんと機能を持った町だったんだ。

ミッキー:そこのバンドだったんです。トミーがメインのラパンゼルっていうバンドにいて。

田家:ミッキーさんがボストンに行かれたのは1971年でボストン。スティーブさんとバンドを組んだのは1972年で、その頃からそういうアメリカになっていたんですか?

ミッキー:いや、そのときはコミューンはあまり関係なかったですね。だいぶヒッピー文化が下火になっているので、『イージー・ライダー』みたいなのもいなかったし。僕が行ったのはボストンですから、ターナーズホールズっていうのはニューヨークに近い山の中というか。とにかく日本と圧倒的に違ったのはすべてが統計学とか、そういうものをちゃんとデータとして持っている上でやるんです。僕なんかオリエンタルだったから、モータウンなんかにも声をかけられたり、オーディションを受けたりとか、いろいろ得した部分もあるんですよね。やっと黒人文化、白人文化が交わってきたけど、まだまだ問題があった頃ですから、東洋人だからほとんど相手にされなかった。どっちかと言うとあっちは差別しているんだけど、こっちは区別されていたイメージで過ごしたんですけども。

田家:ゴダイゴの中では日本とアメリカの国境を越えたストーリーがいっぱいあるなというのも、今回あらためて思ったことではあるんです。

ミッキー:ゴダイゴの名前自体思いついたのはウッドストックですからね。

Rolling Stone Japan 編集部

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