小田和正が追求する音楽の普遍性、オフコース時代から現在までを辿る



田家:今日の4曲目です。小田和正さんの2000年のソロアルバム『個人主義』の中の「the flag」ですね。「生まれ来る子供たちのために」の20年後だったんだなとあらためて思いました。30代が50代になるわけですね。この曲も「生まれ来る子供たちのために」を聴いたときと同じような共感を持ったんです。あ、俺たちの歌というふうに思えたんです。

小田さんの90年代はバンド時代と激変しました。バンドとソロで活動の仕方が変わったという意味では、歴史的に変わった1人でしょうね。テレビに全く出なかった人なのに、1991年の「ラブ・ストーリーは突然に」がいきなりテレビから流れて、“ラブソングの教祖”扱いされるようになってしまった。その後、映画を2本作ったり、とても活発な活動をするようになって。1995年の阪神淡路大震災の時もそうでしたけど、泉谷しげるさんがスーパーバンドを作ってチャリティ活動を始めた。泉谷さんを最も支えたのが小田さん。拓郎さんとかいろいろな人たちがいる中でまとめ役でした。

1985年の「ALL TOGETHER NOW」もそうですね。国立競技場でいろいろな人たち、70年代世代と80年代世代が集まったときに1番積極的だった1人が小田さんですよね。80年代、90年代のシーンの中心に彼はいた。で、1997年に50歳になった。40代すら想像できなかった世代、50代なんてもっと遥か彼方にあったわけですね。50代になって作ったのがアルバム『個人主義』です。1997年のツアーパンフに残された時間をどう使うかというふうに小田さんが発言していました。この後、1998年に東北自動車道で九死に一生の交通事故があって、ファンから生きていてくれてよかったという手紙をたくさんもらって、考え方が変わったと発言している場面もありました。この『個人主義』は「the flag」のためのアルバムにも思えたんです。

シングルになっていない曲ですから、耳馴染みのない曲になると思うんですけども、これが小田さんのある一面、1番根底にあることでもあると思うんですね。2000年というのはバブルが崩壊して、世の中が変わった時です。小田さんの学生時代の仲間は建築業界に入ってるわけですね。大学院で建築を勉強していた人ですから、設計士になったり、そういう現場で働いた人も多いでしょう。そういう人たちが50を前に肩叩きにあったりする時代になった。同世代に向けて、もう1回戦おうよということをこんなふうに歌っていた。何せ“武器”ですからね。

「ラブ・ストーリーは突然に」で小田さんが好きになって、ラブソングの教祖と小田さんを持ち上げていたメディアの人たちもギョッとしたんじゃないでしょうかね。俺の武器はなんだろうと考えざるをえない状況で生きてきましたから、小田さんが武器という言葉を使ったときに、あ、俺たちの歌と思えたんですね。なぜ自分が音楽に関わっているのかということもあらためて問い直された。俺もそこに行くよと思えた、そんな曲でもありました。

Rolling Stone Japan 編集部

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