大江千里が今だから語りたいマイ・ソング、デビューから87年までを本人と振り返る



田家:千里さんが選ばれた今日の2曲目。1983年12月発売、3枚目のシングルで「ふたつの宿題」。色々思い出したことがありましたか?

大江:当時って全部が具体的ですよね。「あの午後は4年前」とか「ここで出逢った君は平凡すぎる」とか。ヒリヒリしながら書いてました。

田家:舞台は学祭やキャンパスなんですけども、歌われてる内容はかなりヒリヒリしたものがありますよね。

大江:そうですね。当時のプロデューサー小坂(洋二)さんから「千里は詞をもうちょっとやった方がいいから、映画でも何でもいいから徹底的に研究して、気になるセリフとかをノートに書き留めろ」って言われて。何本も映画を見て言葉をノートに書き留めてました。そのノートをパッと開いて映画のシーンを思い浮かべながらピアノを弾いて曲を作りました。あと、自分が経験したことを片っ端からメロディに乗っけていきました。Bメロで時軸を変えて、久しぶりに会ったらお互いに平凡な大人になってたって。

田家:大学生シンガー・ソングライターというあり方はどう考えていたんですか。

大江:ずいぶん便利な立ち位置で、東京に行くと「すいません学生っぽくて、さっきまで卒論を書いてました」みたいなことをほざいて(笑)。で、新幹線で3時間半ぐらいかけて関西に戻ると「昨日六本木でさぁ」みたいなことを、標準語で言ったりなんかしてね(笑)。リバーシブルなある種のエトランゼというか。自分の立ち位置がフラフラとあっちにいったりこっちいったりできる楽しさを味わっていましたね。

田家:面白がっていた感じなんですね。さっきもちょっと話に出た林真理子さん。80年代といえば「キャンパスカルチャー」、ある種の軽いカルチャーのことを「軽チャー」と呼ぶみたいな。そういう時代の空気の中にいましたよね。

大江:林さんやananの高野さんに初めてお会いした時に「千里さんを原宿の素敵なカフェにお連れしたい!」って言われて。当時、髪にタオルみたいなものをつけて、大きなスカートなんかを着たお客さんが、足が届かないようなカウンターに座ってカクテル飲んでいるような、東京のそういう最先端に混じってることが新鮮で楽しかったです。林さんと高野さんがしゃべる会話の語尾まで聞き漏らさないようにしようと思ってましたね。

田家:関西にはそういうのはまだなかったんですか?

大江:関西はまたちょっとクセが強くて。古い3階建てのビルをそのまま改造した「パームス」とかっていうビルがけっこう有名で、僕はそこにレコード屋さんとかを集めてデビューパーティーをやりましたね。

田家:当時、大江さんが東京と関西、それぞれのカルチャーの架け橋の人になってたということでもあるのかもしれないですね。

大江:デビューの日はバーボンハウスっていうライブハウスで1時間ぐらい自由な時間もらったので、御堂筋線に乗って心斎橋に『WAKU WAKU』を探しにミキ楽器に入っていったんだけど、ワのコーナーにはなくて。大江千里だからってことでオのコーナーを探したらやっと見つけて。誰にも見つからないように一番目立つところに置いてさ(笑)。すぐに梅田のバーボンハウスに何食わぬ顔で戻って来て、デビューコンサートをやってましたね(笑)。

田家:青春ですね(笑)。

Rolling Stone Japan 編集部

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