ミック・マーズが愛憎のバンド人生を語る、さらばモトリー・クルー 

「眼のなかをのぞき込んでも、悲しみしかない」

マーズが9歳の時、7人家族は1959年式フォード・ギャラクシーに鮨詰めになり、約3200キロメートル走ってカリフォルニア州のガーデン・グローブという労働者階級が暮らす街に移住した。金はなく、貧乏暮らしは1980年代にモトリー・クルーがブレイクするまで続いた。それでも両親は、家計をやりくりしてギターを買ってくれた。休むことを惜しむようにギターを練習しながら、マーズは成功だけを夢見ていた。その後、マーズの人生が変わった。まだ19歳の頃にガールフレンドのシャロンが長男のレスポールを産んだのだ。その2年後に長女のストーミーが誕生した。

昼間はクリーニング工場で働き、夜は自分が結成したWahtoshiというバンドのメンバーとともに小さなナイトクラブのステージに立った。だが、ある日職場で事故が起き、あと一歩で片手の骨を粉砕されそうになった。その日を機に仕事を辞め、音楽活動に専念した。ガールフレンドのシャロンは、子供たちを連れて家を出た。金のない駆け出しミュージシャンにとって、ここからが苦労のはじまりだった。マーズは、ロサンゼルス界隈の三流バンドで演奏しては酔っ払ってソファや床の上に倒れ込み、養育費の支払い期限が過ぎたと言って追いかけてくる警官たちをかわすようになった。


1976年当時、ホワイト・ホースのメンバーとして活動していたミック・マーズことロバート・アラン・ディール。アナハイム・ウェアハウスにて。COURTESY OF HENRY CLAY

1973年にマーズは、比較的成功していたホワイト・ホースというコピーバンドに加入した。「ピッチがとても安定していた」と、バンドのベーシストのハリー・クレイは振り返る。「耳もよかったし、タイミングも抜群だった。一音一音、きっちりコピーできた。たとえば(ディープ・パープルの)『Highway Star』の音源を渡したら、リッチー・ブラックモアのリフを完璧に弾きこなした」

ホワイト・ホースのメンバーとして安定した収入を得るようになったとはいえ、家賃を払う余裕はなかった。クレイとドラマーのジャック・ヴァレンタインがシェアしていたアパートメントに転がり込み、床にマットレスを敷いて寝た。第3子のエリックが生まれると、財政状況はますます悪化した。「哀れな奴だった」とヴァレンタインは言う。「眼のなかをのぞき込んでも、悲しみしかないんだ。苦労してたんだな」(マーズはレスポールとは連絡を取り合っているが、ほかの2人とは疎遠だ。約10年前に結婚した妻のセライナは、2人とは顔を合わせたことがない。マーズは、自分に孫が9人と、少なくともひ孫が1人いると信じているが、正確な数はわからない。家族のことについては、あまり語りたがらないのだ)。

しかし1970年代後半には、ロックバンドが演奏していたナイトクラブのほとんどがディスコへと変わった。そのため、ホワイト・ホースはマーズに脱退を迫らなければならなかった。「もうロックなんて演奏できなかった」とヴァレンタインは語る。「プロデューサーに『ふざけたロックンロールをやめてディスコシーンに乗らないと、ヴァン・ヘイレンみたいに一生酒場で演奏し続けるハメになるぞ』と言われたんだ」

Translated by Shoko Natori

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