ミック・マーズが愛憎のバンド人生を語る、さらばモトリー・クルー 

モトリー・クルーとして味わう成功体験

その後、マーズとニッキー・シックス、ドラマーのトミー・リーが結成したバンドは、マーズの運命を変えるはずだった。マーズは、ようやく自分の野心とスキルに見合うだけでなく、オリジナルバンドとしての強いこだわりを掲げる存在に出会えたのだ。そして、このバンドを「モトリー・クルー」と名付けた(oとuにウムラウトを付けるというのは、シックスのアイデアだった)。

さらにマーズは、楽曲づくりを資金面で援助してくれるサポーターを見つけ、結成からたった数週間後に彼らを説得して初代シンガーのオディーン・ピーターソンを解雇した。モトリー・クルーに合っていないと思ったのだ。「ヴィンス・ニールに初めて会った時のことを覚えている」とマーズは語る。「ヴィンスは19歳くらいだったかな。ブロンドのすらっとした青年が、白いレザーの衣装に身を包んでいた。本当にかっこよかった。『こいつが歌えるかどうかなんてどうでもいい。女の子たちを見てみろ! セックスアピールは金になるんだ』と思った」

モトリー・クルーのメンバーとしてのキャリアを振り返ると、1981年に味わった高揚感に勝るものはないと言う。1981年といえば、バンドが一躍クラブシーンに躍り出、のちに名曲と称される「Live Wire」や「Too Fast For Love」をレコーディングした時期だ。パンクやグラム、メタルの要素を等しく取り入れたモトリー・クルーは、独自のハイブリッドなサウンドを創出した。「人生でいちばん幸せだった時期だ」と回想する。「場末のクラブで腐っているのではなく、梯子をのぼっているような感覚だった。目で見てもわかるし、実感としても感じられた。なにもかもが新しかった。誰もが『こんな音楽は聴いたことがない』と驚いていた」





この時代に活躍した多くのメタル・ギタリストと違い、マーズはテクニックをひけらかすようなことはしなかった。テクニカルなプレイをお見舞いしてくるギタリストを軽蔑していた。「ミックのトーンは最高だった」と、1992年にニールの後任として加入したジョン・コラビは言う。コラビは、いまもマーズと親交がある。「ミックは、(マウンテンの)レスリー・ウェストやジェフ・ベックのようなトーンの魔術師たちに憧れていた。大事なのは、相手の胸に蹴りを入れて、神をも恐れないような大胆なサウンドを繰り出すことだった。サウンドに関しては、ミックは科学者だった。メンバーより10歳年上だっただけでなく、その分賢かったんだ」





MTVに見出されて、一晩に何万人ものオーディエンスの前で演奏するようになると、事態はやや複雑になった。ニールとシックス、リーの3人は、ロックンローラーのライフスタイルにどっぷり浸かるようになったのだ。バンド内に深い亀裂が走り、軋轢が表面化した。彼らの生活にヘロインの魔の手が忍び寄っていた。「俺は、頼むからヘロインには手を出すなと言った。ヘロインでイカれた頭に音楽なんて作れない。でも、手遅れだった。あれには心底辟易した」とマーズは明かした。マーズ自身、1980年代に重度のアルコール依存症を抱えていた。もともとグルーピーにはあまり興味がなかったが、「俺はメンバーのなかでも最年長だったから、俺のファンもそれなりの年齢だった。(中略)実際、死ぬほど羽目を外すこともあるけど、何事にも潮時がある。『もう終わりだ』と言えることが大事なんだ」

Translated by Shoko Natori

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