米マンション崩落事故、母を失った「奇跡の生存者」と父の再出発【長文ルポ】

ジョナさんの「脳内地図」

それ以来、ハンドラー親子はいつも一緒だ——降水確率がほぼゼロの日も。ステイシーさんの葬儀が終わると、ニールさんにとって試行錯誤の毎日がはじまった。自分なりの方法で息子の悲しみを和らげ、アメリカ史上最悪の事故を乗り越えようとしたのだ。追悼式への招待や警察からの提案は断った。遺族のグループチャット内でさえ、ニールさんの支援活動は、あまり取り沙汰されなかった。損害賠償絡みの内輪もめにも関わりたくないと思っていた。2月末には、損害賠償の集団訴訟をめぐって136戸のマンションオーナーと97人の犠牲者遺族の間で亀裂が生じていたのだ。「悲劇のあとも日常生活が続いていくのを見て、悲しい気持ちになりました」とニールさんは話す。

それでも、ニールさんは生きつづけることの大切さを信じている。だからこそ、いまもコリンズ・アベニューの賃貸マンションで暮らしているのだ。ステイシーさんとの思い出と近い場所にジョナさんを留めておくために。「息子が恐怖を乗り越えることができなければ、それは一生ついて回ります。事故の1〜2週間後に私が一軒家に引っ越したとしたら、あの子は二度とビルに足を踏み入れられなくなるでしょう」。だが、事故現場が世間に初めて公開された日も、ジョナさんはチェーンが張り巡らされた2ブロック先の現場を訪れようとはしなかった。


コリンズ・アベニューの北側から見た、シャンプレイン・タワーズ・サウスの残存部分。ハンドラー親子は、ここから約130メートルほど離れた場所で暮らす。(Chandan Khanna/AFP/Getty Imagess)

ハンドラー親子は、車でワインウッド地区にあるコワーキングスペースを訪れた。そこでジョナさんの“人生のコーチ”となる人が、ジョナさんの脳内地図を見せてくれた。ハンドラー親子の許可を得て、本誌はマイアミを拠点とするPATHWAVESという会社が提供しているニューロフィードバック療法(訳注:コンピュータとセンサーを使って脳活動を可視化し、リアルタイムでモニターしながらその活動を訓練によって制御する治療法)の8回のセッションに同席した。週に一度、技士がジョナさんのふさふさの栗色の髪に覆われた頭部の23カ所に電極パッドを貼りつける。ジョナさんがリクライニングチェアに座ってアコースティックギターのメロディを聴いている間、技師はトラウマの大きさを数値化するのだ。“あの出来事”の数週間後、ニールさんは、ジョナさんに全身麻酔薬を投与して苦痛を和らげることや、何らかのスピリチュアルパワーを備えたPTSDインフルエンサーを雇うことも考えた。7分続いた悪魔のバッティングセンターでの体験をジョナさんが二度と思い出すことなく、恐怖を乗り越えられるようにするには、何でもする覚悟だった。病院が手配したカウンセラーは、半年間にわたってジョナさんに運動の大切さを教えようとした。カウンセラーは、ジョナさんがリトルリーグ時代に初めて味わった速球の恐怖を克服した時のように、自分の足で地面を感じることが大切だと説いた——いまを生きるために。だが、効果はあまり感じられないとジョナさんはニールさんに明かした。

PATHWAVESの創業者・CEOのジェフ・コール氏は、「建物の10階から落ちる確率は、宝くじに10回当たる確率よりも低い」と言ってジョナさんを説得した。ジョナさんの脳を鍛えて、明日また同じ悪夢が繰り返されるかもしれない、という思考をストップさせることができるとコール氏は言った。それでも、漠然とした恐怖は消えなかった。「また怖い思いをするのは嫌です」とジョナさんはコール氏に話した。

「ジョナさんの脳内地図は、まるで戦地から帰還した退役軍人のようでした」と、コール氏は初めて診察した時のことを振り返った。それに加えて、無意識の状態のジョナさんの脳内ボルテージは、いじめを受けたティーンエイジャーと比べて2〜3倍も高かった。“インタフィアランス・スケール”上に示された当初の測定値は41%。原因は、潜在的な恐怖。セッション中、コール氏はストレスをジョナさんの認知能力を消費する「どこにでもあるような、格安のコピー機」にたとえた。「スマホをパシファイアー(訳注:心を落ち着かせるもの)だと思って使ってごらん」とコール氏はアドバイスした。ジョナさんは、イヤホンを装着して、大好きな写真共有アプリを立ち上げたが、あまり効果を感じなかった。それから1週間後、ジョナさんの値は27%まで下がった。その効果に圧倒されたニールさんは、ファースト・レスポンダーに連絡を取り、この治療法を試してみないかと言った——それも無償で。ステイシーさんのきょうだいが5000ドル(約68万円)の寄付を申し出てくれた。ひょっとしたら、これは慈善活動になるかもしれないとニールさんは思った。

自宅では、ジョナさんが天気予報アプリとにらめっこをしていた。今夜は嵐の予報はない。ジョナさんは「パパ、外食しに行っていいよ」と声をかけると、部屋に閉じこもってゲーム用のデスクに座った。プレイステーション5には、ストリートウェアブランドのロゴのステッカーが貼られ、壁にはファースト・レスポンダーのワッペンがピンで留めてある。だが、ノイズキャンセリングヘッドホンによる沈黙はすぐに破られた。「ウー、カンカンカン」という消防車のサイレンではない。大きな音がだんだん近づいてくる。それが丸1分続いた。警報音が止むと、ジョナさんはゲームを再開した。すると、また警報音がした。1分、2分、3分、4分、5分……。ジョナさんはぐっと我慢した。ようやく音が止んだ。ジョナさんは父親に電話をかけ、落ち着いた様子でエレベーターに乗り、「マンションのどこかで火事があったのですか?」と夜間勤務の警備員に尋ねた。「どこかの煙感知器の誤作動かもしれません」と警備員が言った。「それからは、あまり気にならなくなりました」とジョナさんは話す。

Translated by Shoko Natori

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