ザ・スパイダースが与えたシーンへの影響、当時のプロデューサー本城和治と振り返る

ヘイ・ボーイ / ザ・スパイダース

田家:19664月発売の「ヘイ・ボーイ」。ザ・スパイダースらしい曲ですね。

本城:そうですね。これは彼らのシングル2作目なんですけど、ザ・スパイダースはかまやつひろしが主に作曲していて、彼の曲っていうのはポップソング的な部分な要素とロックの要素と両面ある。この曲はロックのよさを出した曲ですね。

田家:フィリップスに入る時はお誘いになったんですか?

本城:きっかけはどうだったんでしょう……。話があったんですよ、シンコーミュージックやホリプロ経由で。それで彼らも新しいスタイルの音楽をやるにあたって、新しいイメージのレーベルからというのもあったでしょうし、我々もザ・スパイダース以前にもいろいろなグループを試したりしていたんです。フィリップスも当時は日本ビクターの中にあった部門ですので、ビクターでの契約はできないんですよ。そうするとビクターのアーティストになってしまう。当時は専属制度が厳しくありましたし。我々は基本的にオランダのフィリップスから原盤を出しているのですが、私はどこかの原盤という形で契約するというシステムを日本で初めてやったわけです。それで、シンコーミュージックの原盤としてスタートしました。ホリプロさんとシンコーミュージックがアーティストと録音契約して、フィリップスから発売するという形です。

田家:ホリプロで原盤を作るケースってそれまであったんですか?

本城:なかったです。だからホリプロはそういう機能もなかったので、シンコーミュージックが制作、原盤はホリプロとシンコーミュージックで折半という形ですね。

田家:原盤という形を最初に取ったのがナベプロで、それがクレイジーキャッツでしたが、ホリプロはまだやっていなかったんですね。ザ・スパイダースから始まったんですか?

本城:そうです。

田家:特にビクターは橋幸夫さんとか吉田正さんという大作曲家もいて。歌謡曲の会社というイメージがあったでしょうから、こういう音楽はできなかったかもしれないですね。

本城:そういうセンスのあるディレクターもいなかったでしょうしね。

田家:なるほど。本城さんはその中でもザ・スパイダースにいろいろな可能性を感じたと。その辺も後ほど伺いましょう。続いて19667月に発売になった「サマー・ガール」。

Rolling Stone Japan 編集部

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