成功からの転落 米ロックバンドを崩壊させた「自称投資家」「洗脳」「暴力」【長文ルポ】

「俺たちは、昔からメディアの人気者じゃなかった」

こうしてLIVEのオリジナルメンバーが揃った。それはメンバーが高校生になる前のことだった。バンドはPublic Affectionという名前で活動し——LIVEというバンド名になったのは1991年のこと——その後数年にわたり、ゆっくりではあったが着々とキャリアを積んでいった。やがてバンドは、ピクシーズのような人気バンドのオープニングアクトを務めるまで成長した。セットリストに関しても、カバー曲よりもオリジナル曲が増えていった。1989年には自身のレーベルからデビューLP『The Death of a Dictionary』をリリースしたが、当時はまだ自分たちのサウンドと呼べるものを見出せずにいた。変化が訪れたのは2年後の1991年。バンドはトーキング・ヘッズのギタリストのジェリー・ハリスンとタッグを組み、大手MCAレコードの子会社から『Mental Jewelry』というアルバムをリリースした。



コワルチックとテイラーが手がけたリードシングル「Operation Spirit (The Tyranny of Tradition)」が気鋭のアーティストのMVを紹介するMTVの『Buzz Bin』に取り上げられると、LIVEの音楽は突如としてアメリカ中の音楽ファンに知れ渡った。MVが初めてオンエアされたとき、LIVEはサンフランシスコのフェニックス・ホテルに滞在していた。ホテルにはニルヴァーナも滞在していた。「当時は、誰もニルヴァーナのことを知らなかった」とテイラーは言う。「ニルヴァーナのメンバーは、自分たちの公演が終わると俺たちと肩を並べて、ビールを飲みながらオンエアを待った。真夜中に『Smells Like Teen Spirit』と『Operation Spirit』が立て続けにオンエアされたんだ。あれには正直驚いた」

その後、「Operation Spirit」はAlternative Airplayの9位にランクインし、LIVEは時間をかけてツアー活動を行った。その結果、待望の2ndアルバムの『Throwing Copper』がリリースされたのは1994年——カート・コバーンが世を去った数週間後だった。『Throwing Copper』のリードシングル「Selling the Drama」と「I Alone」はロック専門のラジオ局を席巻する一方、LIVEは同アルバムの収録曲「Lighting Crashes」によってさらなるスターダムを獲得した。主にコワルチックが作曲を手がけた「Lighting Crashes」は、病院でひとりの女性が息を引き取るなか、別の女性が子供を産むという生と死のサイクルの完成形を描いた胸を打つほど誠実な楽曲だ。

「部屋に入った瞬間、エドが『プラセンタ』と言っているのを耳にしたのを覚えている」とテイラーは振り返る。「『いったい何のことを歌っているんだろう?』と不思議だった。でも、中学時代はみんなが親父のプレイボーイ誌を見つけようと必死になっていたのに、エドだけは東洋哲学の本を読んでいた。エドは、神秘主義やスピリチュアルな旅について歌っていたんだ」

『Throwing Copper』は最終的に800万枚以上を売り上げ、LIVEはポストグランジ・シーンを支える存在となった。それでもLIVEは、音楽評論家たちから相手にされなかった。「俺たちは、昔からメディアの人気者じゃなかった」とグレイシーは語る。「小規模で経験の浅いマネジメントを雇っていて、そこにすべてを委ねていた」



Translated by Shoko Natori

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE