陪審員を惑わすイケメン極悪人、映画のような脱獄〜逃走の一部始終 米【長文ルポ】

コートニーさんが従妹と通っていたMimi’s Caféで、ナイエリは昼間ウェイターとして働いていた。当時23歳だった。コートニーさんはまだ16歳だったが、ナイエリにはフレスノ州立大学の1年生だと言った。2人は付き合い始め、身体の関係を持つようになった。数週間後、17歳の誕生日直前に彼女は本当の年齢を白状した。ナイエリの話では、2人はそこで別れた。コートニーさんの話では、2人はその後も交際を続け(性的関係も)、数月後に別れた。

裁判でのナイエリの証言によれば、彼は名うてのディーラーだというイーサン・トゥシと大麻ビジネスを確立した。トゥシは長年の友人を仲間に引き入れた。かつてのナイエリの宿敵カイルだ。ナイエリいわく、3人は街の北部にある廃業したダンススタジオで大麻栽培を始めた。ナイエリが販売所に卸した――もちろん違法の裏取引だ。

コートニーさんが18歳になったのを機に、2人はよりを戻した。ナイエリの暮らし向きは上々だったが、向こう見ずな性格が災いした。2005年のクリスマスの翌日、ナイエリとトゥシはフレスノ北部の丘陵地にある部族経営のカジノで友人らとパーティに興じていた。すっかりできあがったナイエリは帰りの運転を名乗り出たが、道路を踏み外してSUVを転倒させた。トゥシは即死だった。ナイエリは病院までヘリで搬送された。足はひどいやけどを負っていた。皮膚移植が必要で、足の指を失った。

ナイエリは泥酔し、ハイだった。薬物検査の結果、血液からコカインが検出された。危険運転致死罪で起訴され、保釈金で保釈された。数月後、彼は逃亡した。母親と父親がすでに帰国していたイラン行きの航空券を購入した。2年間の逃亡生活で、ナイエリは現地に腰を下ろした。ひそかにイラン女性と結婚したが、コートニーさんとはつながっていた。

警察の追跡を巻いたと思われたところで、ナイエリは密かにアメリカに帰国した。のちに裁判でも証言したように、渡航ではコートニーさんが用意した従兄のアメリカ国籍のパスポートを使った。ナイエリはマリファナ事業に復帰した。栽培業務を拡大し、シアトル・マリナーズの球場付近で作業した。裁判での証言によれば、コートニーさんの父親からの送金で暮らしていたという。

父親の電子機器リサイクル会社で働いていたコートニーさんは、会社の法人カードを使って15万ドル相当をナイエリの事業の支払いにあてた。「ホセインは私に圧力をかけて、私には払えそうもないものをねだりました……それで私は両親のAmerican Expressで支払いました」とコートニーさんは証言している。「この時点で私はホセインに怯えていました……彼に歯向かう選択肢はないと感じていました」

2009年、ナイエリはお縄にかかった。彼は友人の死で不抗争の答弁をした。判事が刑罰を検討する間、ナイエリは旧友とともに裁判所に手紙を書いてゴマすり作戦に出た。事故は「人生で最大の過ちだった」とナイエリは書いている。「意識が戻らなければよかったのに」。ライアン・ケヴォーキアンは裁判で、ナイエリが「他の誰よりも自分を罰している」と語った。当時ライアンの妻だったナオミさんも、ナイエリは「私が知る中でもっとも素晴らしい人物です」と称え、「彼を私の人生に遣わして神に感謝します」と続けた。

ナイエリは懲役刑を求刑されてもおかしくなかった。だが判事は情状酌量を選択し、執行猶予と5年間の保護観察処分を言い渡した。

2度目にテヘランに逃亡した際、コートニーさんはナイエリをサポートした。2人は使い捨て携帯とViberをはじめとするメッセージ自動消滅アプリを活用した。懲戒処分手続きの際にカリフォルニア州法曹協会が申し立てた主張によると、コートニーさんは「ナイエリが命令に従っているように見せかけるため」、ナイエリに代わって「虚偽の保護観察報告書を提出」さえもした(この件について彼女の弁護士に質問したが、返答は得られなかった)。

警察情報筋によれば、ナイエリはコートニーさんに砂漠での顛末を一部始終語っていた。彼は共犯者を『レザボア・ドッグ』のコードネームで呼んでいた。カイルは「ミスター・ピンク」、3人目の筋肉質の男は「ミスター・ブラウン」というように。

夫妻はその年の12月にはトルコ、2013年1月と3月にはドバイと、海外で逢瀬を重ねた。コートニーさんは衣類と薬、それに両親からくすねた現金――3回の逢引で合計6万ドル相当――を持参した(コートニーさんも知らなかったが、ナイエリは同じようにナオミさんともタイとイスタンブールで逢引していた)。

カイルは誘拐と人体切断の容疑で拘束されていた。ニューポートビーチ警察の捜査で動かぬ証拠が見つかった。1月上旬にカイルのトラックの床から発見された青い手袋がラボから戻ってきて、ナイエリのDNAと一致したのだ。

その時点まで、ナイエリの名前は浮上していなかった。だが警察は白バイとの逃走劇で、彼が重要参考人物だとにらんでいた。ナイエリの国外逃亡を知ったときの失望は、タホが今も保管庫に押収されていることを知った喜びでかき消された。「車の捜索令状を取って調べたところ、カメラ類やマイケルさん宅の監視映像が発見されました」とピーターズ氏は当時を振り返る。「『こりゃあ最高だ』と思いましたね」

タホは宝の山であっただけでなく、罠にもなった。警察はその年の春にコートニーさんを呼び、所有物を引き取るよう頼んだ。ナイエリは彼女に出頭するようけしかけた。どんな様子か、警察がどのぐらい知っているかを探ってこい、と。

ピーターズ氏はコートニーさんと面会した。「机の上にこれらの品々をすべて並べました。『車を返却しますが、書類にサインしていただかなくてはならないんです』と言いました」。だが書類作業は通常の手続きではなかった。警察当局の情報筋によると、書類にはこう記されていた。「これらは私の所有物です。私は、これらに映っているものをすべて知っています。これら画像を撮影した張本人は私です、少なくとも何らかの形で関与しました」。警察が上手に出られるようにするのが目的だった。カメラが回る中、法学部の学生は書類を読み――そして署名した。

それからピーターズ氏は、警察が自宅の家宅捜査令状を取ったことをコートニーさんに告げた。警察もぬかりはなかった。機器の所有権を認めたことであなたは重大犯罪との関与を認めたのですよ、とピーターズ氏は言った。ショックを受けたコートニーさんが警察に協力するのを期待していた。「証言者側に回ってもらおうとしたんです」と同氏。代わりにコートニーさんは怒り狂い、ものすごい剣幕で出て行った。

彼女はナイエリに報告した。「彼女は『警察があなたに――私たちに目をつけている』と夫に知らせました」とブラウン氏。夫妻は連絡を絶った。

コートニーさんが口を割らないため、警察は彼女を起訴するつもりだった。ピーターズ氏はコートニーさんが「複数の終身刑を受ける」可能性も考えていた。だがブラウン氏に説得されたピーターズ氏がコートニーさんの父親に連絡すると、父親はプライベートジェットから折り返し電話をかけてきた。ピーターズ氏は娘が結婚していたこと――夫とともに暴力犯罪に関与していることを明かした。

コートニーさんものちに証言したように、ひとたび父親が関わるや天地がひっくり返ったかのようだった。「全世界が崩れ落ちていきました」と彼女は言い、現実が崩壊して「完全な妄想状態、精神的に混乱した状態に陥った」と語った。 コートニーさんは週4日のセラピーに通い始めた。ナイエリと距離を置いて初めて悔恨がこみ上げた、とのちに陪審に語った。「自分がしたこと、自分が手を貸したことを抱えたままでは生きていけません」

Rolling Stone Japan編集部

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